ペルシア語で「土地所有者」を意味するが、イランの用語ではなく、ペルシア語を公用語とするインドのムスリム諸王朝、ことにムガル朝以後の北インドとベンガルで制度用語として確立された。しかし均質一様な社会層ではなく、ラージャ(王)と称し、軍隊、警察、裁判機構を備えて広大な領域を支配し、ムガル皇帝の授権証書によって公租徴収と治安維持に任じられたベンガルの土豪領主=在郷官僚型から、一村落の土地を世襲的に占有する親族団体の成員として団体外の住民に優先する土地権益をもつ、北インドの土地所有共同体農民型までの、多様な存在形態が認められる。
イギリス東インド会社は18世紀末からベンガル、ビハール、ノザン・サルカールズ(オディシャ南部からアーンドラの沿海地帯)で土豪領主型のザミーンダールを法制上の土地所有権者=地租納入責任者とする制度を採用したが、これをザミーンダーリー制という。また、19世紀には北西州、ついでアウドでタールクダールという在郷領主層に同じ権利義務を認めたが、このタールクダーリー制もザミーンダーリー制の一種であり、ベンガルなどでは地租額が永代固定されたのに、北西州などではおおむね30年ごとに地租額が再査定された。
ザミーンダーリー制のもとでは、初期にはかなり多数のザミーンダールが過大に査定された地租の滞納に陥り、所領を政庁の競売処分に付されて没落した。競売地を買い取った者たちは、近隣の他のザミーンダール、地租を滞納したザミーンダール自身の所領管理傭員(よういん)、政庁の地方下級官吏、商人などであり、滞納者自身の他人名義による買い戻しもまれではなかった。インドの大反乱(セポイの反乱)以後の北インドでは政治的配慮からタールクダールの所領喪失を防ぐ措置が講じられるようになった。
ザミーンダーリー制は結局は農民から搾取する地代に寄生するだけで、農業生産には一物をも寄与しない地主をつくりあげただけであり、彼らのある部分の富と力とは大きかったにせよ、農村社会の実質的な権力は村方地主として土地を集積した富農層が担うようになっていった。独立後のインドでは、ザミーンダーリー制その他の植民地的寄生地主制は、有償ではあったがいちおう全国的に廃止された。1950年代初めまでの第一次農業改革がこれであるが、富農層の土地と貧・雇農層に対する地主的支配は依然続いており、現代インドの深刻な農村・農民問題の一因となっている。
[高畠 稔]
『川田侃編『インドの経済開発と土地制度』(1981・アジア経済研究所)』
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…〈永代ザミーンダーリー(地税)制度〉ともよばれる。〈ザミーンダールZamīndār〉とは,ペルシア語のザミーンzamīn(土地)とダールdār(所有者)の合成語で,土地保有者一般を意味したが,本来,イギリス支配以前に存在していたヒンドゥー領主層,村落の小地主層,またムガル時代に土着化していったムスリム(イスラム教徒)豪族層など多様な在地支配層が含まれていた。しかし,イギリス東インド会社は最大の地税収入を確保すべく本制度を生み出した。…
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[ムガル帝国]
ムガル帝国成立前の地主の成立事情については不明な点が多いが,おそらく政治変動の過程で征服,併合,開発による所領の拡大,支配権の強化を通じてさまざまなヒンドゥー地主層が台頭したと考えられる。ムガル帝国はこれらの地主層を一括して〈ザミーンダール(土地所有者)〉と呼んだが,その中には,数十ヵ村,数百ヵ村を領有し,租税の独占的な収取権を持つのみならず,私兵による軍事権や警察権,司法権,行政権をも併せ持つ一種の土豪地主,領主にあたる大地主から,1ヵ村ないし数ヵ村を所有する小地主,一村内の地片を所有する〈手作り地主〉に及ぶ多種の地主層が含まれていた。本来〈支配者こそが唯一絶対の土地所有者〉とするムガル帝国は,実際の各地の統治,徴税にあたっては在地の有力ヒンドゥー地主層を無視しえず,彼らの一部を新たに官僚層に任じその知行地を安堵し,徴税権(場合によっては行政権,軍事権)をゆだねた。…
※「ザミーンダール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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