改訂新版 世界大百科事典 「バーブ教」の意味・わかりやすい解説
バーブ教 (バーブきょう)
19世紀にイラン人セイエド・アリー・モハンマドSeyyed `Alī Moḥammad(1820-50)がはじめた宗教。シーラーズに生まれた彼は,ペルシア湾岸の港町で商売に従事したが,まもなくやめてシーア派の聖地カルバラーへ巡礼に行き,同地で神学者カージム・ラシュティーの弟子になり,シャイヒー派の教理を学んだ。師は死ぬ前にシーア派の隠れイマーム(マフディー)の再臨を予言し,1844年,イランの混乱した政治・社会情勢および民衆のマフディー再臨を熱望する宗教的状態を背景に,セイエド・アリー・モハンマドは自らを〈バーブbāb〉(アラビア語で〈門〉の意)と宣言した。彼は腐敗した聖職者を非難するとともに,シーア派の改革や両性の平等,政治・社会の再編成の必要を説き,とくに農民や中小商人の間にマフディーの出現として受け入れられ,その勢力は全国に急速に広まった。増大する勢力に驚いたカージャール朝政府は弾圧を始め,47年にバーブを監禁したが,弟子たちは布教を続けた。48年に主要な教徒たちがマーザンダラーン州のバダシュト村に集まり,既成の宗教の枠内では彼らの宗教・社会思想の実現は不可能であるとして,イスラムおよびシャリーアから完全に離脱することを決定し,さらに積極的な布教のために政府と戦う決意を固めた。48年から2年間彼らはイラン各地で武装蜂起して政府軍に徹底的に抗戦し,大半が惨殺された。50年にバーブはタブリーズで処刑されたが勢力は衰えなかった。52年に2人のバーブ教徒が国王の暗殺を企てたのを機に,政府側の大規模な弾圧と迫害が強化され,約4万の教徒が犠牲になったという。これ以降教徒たちは戦闘的方針をやめ,その後内部分裂によってバーブ教徒の大半はバハーイー教に移り急速に衰退した。バーブの著作の中で《バヤーン》は最も聖なる書とされ,その基本的教理は,〈神は唯一にして,バーブは神が映し出される鏡であり,何人もバーブに神を見ることができる〉ということである。
執筆者:黒柳 恒男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報