パチェコ(その他表記)Pacheco, José Emilio

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パチェコ」の意味・わかりやすい解説

パチェコ
Pacheco, José Emilio

[生]1939.6.30. メキシコシティー
[没]2014.1.26. メキシコシティー
メキシコの詩人,作家,エッセイスト。初期の作品は現実離れした象徴的な表現を駆使して社会問題に切り込んだが,後年はシンプルかつ率直な手法で独自の歴史観を世に問うた。2009年,スペイン語圏で最も権威ある文学賞のセルバンテス賞を受賞。メキシコ国立自治大学で学んだ。デビュー作『メドゥーサの血――幻想短篇小説集』La sangre de Medusa(1958)は,アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの影響が感じられる作品だった。小説 "Morirás lejos"(1967)で虐げられたユダヤの歴史を綴り,詩集 "No me preguntes cómo pasa el tiempo"(1969)では,過去に戻りたいというノスタルジックな願望風刺を交えながら喚起した。詩集 "Islas a la deriva"(1976)では歴史と神話の再解釈を試みた。

パチェコ
Pacheco, Francisco

[生]1564. サンルカルデバラメダ
[没]1654. セビリア
スペインの画家,著作家。ルイス・フェルナンデスに師事し,セビリアで活躍。スペイン・バロック(→バロック美術)を代表する画家の一人で,作風は写実性に基礎をおく明暗表現が特色著書『絵画術』Arte de la pintura(1649)は,スペイン絵画史の重要な源泉となった。弟子には婿となったディエゴ・ベラスケスやアロンソ・カーノがいる。

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朝日日本歴史人物事典 「パチェコ」の解説

パチェコ

没年:寛永17.6.16(1640.8.3)
生年:生年不詳
江戸初期に来航したマカオ市代表使節。コチン出身。寛永16(1639)年に江戸幕府ポルトガル船来航禁止を決定したことは,日本貿易に依存するマカオ市にとって死活問題であった。そこでマカオ市は日本渡航の経験者パチェコを筆頭に4人を特使とし,総勢74人を長崎に派遣した(寛永17年5月)。しかし貿易再開の嘆願書は功を奏せず,約1カ月後に黒人水夫13人を除く全員が長崎・西坂で斬首の刑を受け,遺留品と船は焼かれた。助命者はのちに中国船でマカオに送還,これで日ポ通交の断絶は決定的となる。『バタヴィア城日誌』(バタビアのオランダ東インド総督府による日記)によれば,処刑されたパチェコは「マカオの貴人」で,宗教に熱心だが,日本のキリスト教の進展にはやや失望していたという。<参考文献>永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』4巻,村上直次郎訳注,中村孝志校注『バタヴィア城日誌』1,2巻

(鳥井裕美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「パチェコ」の解説

パチェコ Pacheco, Luis Paes

?-1640 ポルトガルの使節。
江戸幕府のポルトガル船来航禁止令に対して,通商再開を嘆願する特使のひとりとしてマカオ市から派遣される。寛永17年(1640)5月長崎に到着したが,出島の獄につながれ,6月16日西坂(長崎市西坂町)で他の使節や乗組員とともに処刑された。インドのコーチン生まれ。

パチェコ Pacheco, R.P.Francisco

1565-1626 ポルトガルの宣教師。
イエズス会士。慶長9年(1604)来日。17年再来日し,19年キリシタン追放令でマカオへわたる。翌年日本に潜入。肥前島原地方や京都などで布教し,日本管区長となったが,寛永3年閏(うるう)4月26日長崎の西坂で火刑に処された。61歳。

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