イタリア南部,シチリア島の都市。シチリア州の州都で同名県の県都。人口67万5277(2004)。パレルモ湾に面し,パレルモの守護聖女ロザリアを祭ったペレグリノ山(690m)のふもとの〈コンカ・ドーロConca d'Oro〉と呼ばれる肥沃な盆地に位置する。オリーブ,かんきつ類,ブドウ酒,硫黄などが主要産物。毎年〈地中海見本市〉が開催されている。
前8世紀からフェニキアの植民都市パノルモスPanormosとして栄え,第1次ポエニ戦争でローマが占領(前254)。次いで535年から831年までビザンティン帝国の下でシラクサに次ぐ都市であったが,イスラム教徒の占領するところとなり,9世紀末にはシチリア全島がイスラム教徒の支配下に入り,パレルモはその中心地として繁栄した。一時は人口30万といわれ,コルドバ,カイロと並び称された。しかし,1061年に始まったノルマン人のシチリア上陸は,パレルモを72年に陥落させ,シチリアをキリスト教徒の手に奪回した。ノルマン王朝の下で,1130年,パレルモはシチリア王国の首都となり,イスラム文化の伝統とも共存し,いわゆる12世紀ルネサンスの一大中心地ともなった。続くシュタウフェン朝のフリードリヒ2世は,ドイツ国王とシチリア国王を兼ねる神聖ローマ皇帝としてパレルモに居を定め,その宮廷は国際文化交流の場として地中海文明の中心地ともなった。みずからも詩作をするフリードリヒ2世の宮廷からは〈シチリア派〉の詩人と呼ばれるイタリア俗語詩の優れた作家が輩出した。しかし,一方では経済の衰退が始まっていた。フランスのアンジュー家の統治下では,ナポリに首都が移され,その圧政に対して,1282年の復活祭に〈シチリアの晩鐘〉として知られる反乱が起こり,アンジュー家は駆逐され,代わってアラゴン王家が支配する。しばらくパレルモの衰退は続いたが,15世紀から再び活気を取り戻し,道路,教会堂などの建築が行われた。ナポレオン戦争のあと,両シチリア王国はスペイン,ブルボン朝の支配となるが,イタリア統一運動が最高潮を迎えた1860年,ガリバルディの率いる千人隊がマルサラからパレルモに到着するのに呼応して,市民は反乱を起こしブルボンの支配を覆した。同年10月イタリア王国に統合。
執筆者:望月 一史
パレルモおよびその周辺は旧石器時代後期から美術活動が始まり,近郊のアッダウラAddauraからは洞窟線刻画が発見されている。新石器時代後期と青銅器時代は東地中海域との交流があり,植民都市パノルモスが建設された前8世紀以降は北アフリカ,エトルリア,ギリシア世界との接触が認められる(ミノア・ミュケナイ陶器など)。ローマ時代の美術品はモザイクなどを除ききわめて少ない。ビザンティン時代,イスラム時代も同様に遺品は少ないが,ノルマン時代の美術には,それ以前の美術様式を伝えるものがある。つまり,近郊のモンレアーレMonrealeの大聖堂サンタ・マリア・ラ・ヌオバ(12世紀末)のモザイクはビザンティン様式を伝え,ノルマン宮殿カペラ・パラティーナ(1132-40)の壁画には,ロマネスク,イスラム,ノルマンの絵画様式が混在している。パレルモの大聖堂サンタ・マリア・アッスンタ(1185)はノルマン・ゴシック様式の代表例であり,付属博物館を有する。またラ・マルトラーナ教会(1143)はイスラムの建築要素をみせる。古代美術はパレルモ考古学博物館,中世以降の絵画作品はシチリア美術館に収蔵されている。
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア南部、シチリア自治州の州都。人口65万2640(2001国勢調査速報値)。シチリア島北西部、ペッレグリーノ山(606メートル)の麓(ふもと)に広がる海岸平野コンカ・ドーロに位置し、ティレニア海のパレルモ湾に面する港湾都市。かつて一面に広がっていた柑橘(かんきつ)類の栽培地は、第二次世界大戦後、市街地の拡大に伴い著しく減少した。造船、食品、衣料、家具などの製造業が営まれるが、造船業を除けば中小工場が一般的である。ローマおよびナポリとの間に航空路がありナポリやジェノバなど各地と船でも結ばれ、旅客の往来は活発である。しかし硫黄(いおう)や柑橘類の輸出港としてのパレルモ港の機能は、いまではほとんど停止している。州の行政、交通、商業、金融、文化の中心地で、1805年創設の大学がある。ビザンティン、アラブ、ノルマン、バロックなど多様な様式の建築物が残る。ノルマン王宮(12世紀、正面は18世紀)、大聖堂(1185)、サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会(12世紀前半)、プレトリアの泉(16世紀)、国立考古学博物館、国立シチリア美術館などがある。
[堺 憲一]
紀元前8~前7世紀、フェニキア人によって建設された。第一次ポエニ戦争中の前254年、ローマ人の支配下に入る。ラテン名パノルムスPanormus。紀元後535年以後約3世紀のビザンティン帝国支配を経て、831年イスラム教徒に占領され、そのもとで繁栄し、柑橘類の栽培が始まった。1072年ノルマン人により征服され、とくにルッジェーロ2世(在位1130~54)と後のホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世(在位1198~1250)治世下で、シチリア王国の首都として全盛時代を迎える。しかし1266年アンジュー家の支配が始まり、「シチリアの晩鐘」とよばれる反乱(1282)が起こるころから衰退が始まった。経済的には17世紀末以降、港湾都市というより農産物の集散地としての性格を強めるようになった。その後サボイア、ブルボンなどによる統治を経て、1860年イタリア王国に併合された。
[堺 憲一]
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シチリアの中心都市。フェニキア人によって建設され,その後ローマ,ビザンツに服属。831年にアラブ人,1072年にノルマン人によって支配され,多様な文化を吸収した。13世紀以降,アンジュー家,アラゴン家,スペイン・ブルボン家の支配下に置かれる。1860年のガリバルディのシチリア遠征を経て,イタリア王国に帰属した。
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…ここでは,語義のたどりやすい例をいくつか示すにとどめる。イギリスのバレルbarrel(たる),ガロンgallon(椀),フランスのアンフォールamphore(かめ),ショプchopとショピーヌchopine(大小のジョッキ),ドイツのアイメルEimer,ファスFass,オームOhm(たる),ザイデルSeidel,クルークKrug,ショッペンSchoppen(ジョッキ),オランダのボッテルbottel(びん),レーペルlepel(さじ),クルースkroes(コップ)。
[衡(質量の基準)]
質量(ないしは重量,ただし厳密にいえば重量は力の一種であって,質量とは峻別(しゆんべつ)されなければならない)の測定に関する歴史は,前数十世紀の時代にさえさかのぼりうるといわれるが,伝承されている史料のうちでもっともポピュラーなのは,古代エジプトのパピルス〈死者の書〉にしるされたてんびんの図であろう。…
…11~13世紀,十字軍時代には聖地に向かったキリスト教徒が樽にいろいろのものをつめて運んだことが知られ,14世紀にはヨーロッパ各地に樽大工の組合ができた。洋樽の一般的な名前はバレルbarrelであるが,その容量に応じていくつかの名称があり,それが樽そのものの名前あるいは容量の表示になっている。現在は容量が一定されていないが,19世紀の記録によると,1.5バレル=1ホッグズヘッドhogshead,2ホッグズヘッド=1バットbutt,2バット=1タンtunであった。…
…ここでは,語義のたどりやすい例をいくつか示すにとどめる。イギリスのバレルbarrel(たる),ガロンgallon(椀),フランスのアンフォールamphore(かめ),ショプchopとショピーヌchopine(大小のジョッキ),ドイツのアイメルEimer,ファスFass,オームOhm(たる),ザイデルSeidel,クルークKrug,ショッペンSchoppen(ジョッキ),オランダのボッテルbottel(びん),レーペルlepel(さじ),クルースkroes(コップ)。
[衡(質量の基準)]
質量(ないしは重量,ただし厳密にいえば重量は力の一種であって,質量とは峻別(しゆんべつ)されなければならない)の測定に関する歴史は,前数十世紀の時代にさえさかのぼりうるといわれるが,伝承されている史料のうちでもっともポピュラーなのは,古代エジプトのパピルス〈死者の書〉にしるされたてんびんの図であろう。…
※「パレルモ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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