イタリア北部,ロンバルディア州の同名県の県都。人口8万0070(1990)。ミラノの約30km南,ティチノ川に臨み,ポー平原の農業地域に囲まれており,伝統的に農作物の集産地であるが,現在は農業機械,農産物加工,繊維などの工業も立地している。この都市の起源はローマ以前にさかのぼるが,とくに中世初期,ランゴバルド王国およびイタリア王国の首都として発展した。その後,ミラノの勢力の伸長とともに停滞に向かったが,14世紀にこの都市を支配下においたビスコンティ家が建設したパビア大学によって,長いあいだロンバルディア地方の文化,学問の中心地としての地位を保った。中世以来の町並みに大聖堂,サン・ミケーレ教会,ビスコンティ家の居城など,重要な建築が散在している。また北の郊外にはロンバルディア地方の宗教建築の傑作といわれるチェルトーザ・ディ・パビア(カルトゥジア会の修道院)が,華麗なルネサンス様式のファサードを誇っている。
執筆者:萩原 愛一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スペインの軍人。1866年に反イサベル体制のクーデターに参加したが、失敗して亡命。1868年の九月革命後に帰国した。共和政下においては軍の高職にあって、南部の急進派であるカントナリスタ(地方分立主義者)の蜂起(ほうき)や北部の保守派カルリスタ蜂起の鎮圧を指揮した。連邦派に反対して統一共和派を支持し、カステラルEmilio Castelar y Ripoll(1832―99)大統領を補佐した。1874年、カステラル政府が危機に陥ると、急進派政府成立を阻止するために武力でコルテス(議会)を解散させ、セラノを大統領に据えた。以後セラノの独裁政が始まり、共和制は実質上崩壊した。王政復古後も軍の最高地位にあり、共和派蜂起鎮圧などにあたった。1895年1月4日死去。
[中塚次郎]
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