改訂新版 世界大百科事典 「ビスコンティ家」の意味・わかりやすい解説
ビスコンティ家 (ビスコンティけ)
13世紀末ごろ~15世紀中ごろミラノと北イタリアを支配した名家。その出自は10世紀にさかのぼり,大司教から封土を授けられた陪臣であった。12世紀中ごろ〈副伯vis-conte〉称号を得て,世襲化し,自らの姓とした。13世紀前半大司教と並ぶ勢力と名誉を獲得し,同家のマムシの紋章はサンタンブロージョ教会の蛇を模写したものである。ウンベルトUnbert Visconti(1248没)が同家の後の発展の基礎を築く。オットーネ(1207-95)はミラノ大司教となり,デラ・トレ家の首領を追放し,ミラノの指導者となる。その甥のマッテオ1世(1250-1322)がシニョーレとなり,皇帝から代官職vicariusを授けられる。1349年以後マッテオの子孫にシニョーレが継承され,ロンバルディア,ピエモンテ,さらにはロマーニャ,トスカナ,ウンブリア地方に同家の支配が拡大される。その支配は分立的傾向を克服するものではなかったが,各地の都市に息子たちをシニョーレとして派遣して,平和と秩序を保障することに成功し,同家を有名にした。またフランスやイギリスの王室とも婚姻関係を結んだのでヨーロッパの権力者ともなる。1395年ジャン・ガレアッツォ(1351-1402)が公爵位を授けられ,ミラノの公国としての歴史が始まる。同家の君主制的支配の野望に対抗して,ベネチアとフィレンツェは共和制的自由を強調し,市民的人文主義を喚起した。時に37人の子どもの父であり,18人の妊婦の夫であると噂されたベルナボ(1323-85)はチョーサーに〈快楽の神,ロンバルディアの鞭〉と書かれたが,彼とは対照的に,フィリッポ・マリア(1392-1447)は男系子孫がなく,広大な領土支配をますます傭兵隊長に依存せざるをえなくなり,唯一の娘ビアンカ・マリアを嫁がせたスフォルツァ家に,ミラノの支配権が受け継がれる。
→シニョリーア制 →ミラノ公国
執筆者:佐藤 眞典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報