改訂新版 世界大百科事典 「パピルス学」の意味・わかりやすい解説
パピルス学 (パピルスがく)
papyrology
ギリシア語,ラテン語のパピルス文書を研究領域とする学問。ハードな面としてはパピリ(パピルスの複数形)現物の復元処理,原本の判読・校訂,校本の公刊といった技術的・専門的な分野を根幹とし,そのうえにパピルス・テキストを駆使しての古典文献学,古代法,主としてプトレマイオス朝およびローマ時代のエジプト史,キリスト教文献学などのソフト面を含む。古典古代の歴史研究の補助学として,金石学と双璧をなす。19世紀末から20世紀初頭にかけて学問体系として成立したが,その多くをウィルケンUlrich Wilcken(1862-1944)に負う。
歴史学が依拠するのは文献資料(すなわち史料)であるが,史料はさらに文学史料(作品)と非文学史料(文書)とに分かれる。後者を占めるのは,とくに古典古代の場合,大理石碑文や銅板銘文,陶片(オストラカ),パピリなどである。通常,前3者は金石学に統括されるが,パピリはもちろん,土器片(オストラカ)でもヘレニズム・ローマ時代のエジプトから出土するものは,金石学でなくパピルス学の範囲に含まれる。数は少ないが,同じ出土の木札や羊皮紙もパピルス学が扱う。その理由としては,刻字やひっかき痕(スクラッチ,古典期陶片)でなくパピリ同様の墨書きであることもあるが,要はパピルス学の関心が主としてギリシア語エジプトにあることによる。パピルス史料は若干の例外を除き,乾燥地帯の上エジプトにしか残らなかった。それがパピルス学による歴史研究の空間を限定している。他方,エジプト以外の稀有な出土例である南イタリアのエルコラーノ(ヘルクラネウム)の炭化パピリも,ギリシア語テキストゆえパピルス学の範疇に属し,そのほかビザンティン研究がパピルス学者の手によって行われることもある。古代エジプト語の3書体やアラム文字,ヘブライ文字,パフラビー文字,コプト文字,アラビア文字などのパピリはパピルス学の範疇ではない。例えばグレコ・ロマン時代のパピルスであってもデモティックならば,それはエジプト学に属する。ラテン語パピルスも数が少ない。したがってパピルス学はほとんどギリシア語パピリが対象だといってよい。刻文と異なって原本のテキストは判読しにくく,行の字数も一定しない。悪筆,走り書き,崩し字のほか略字,符牒化が多く,速記字すらあり,特殊な古文書学を必要とする。
文学パピリは,ビザンティン写本や中世写本で伝承されてきた既存の古典作品の定本校合に大いに寄与したほか,今まで知られなかった新しい諸作品を炭化した塊の中や砂地の中からもたらした(フィロデモスの哲学諸巻,バッキュリデスの詩抄,ヘロンダスやメナンドロスの戯曲,アリストテレス《アテナイ人の国制》など)。福音書の断片や異本,また未知の外典もある。非文学パピリでは,プトレマイオス朝の欠史を埋める数々の行政・経済史料のほか,民衆のなまなましい生活の書付けや手紙類が出土した。ことに著しいのはおびただしい訴訟文書や登記書類で,古代の司法に関してはヘレニズム期エジプトが最も明るい。こうしたパピルス集積の中で群を抜いているのは,前3世紀中葉の〈ゼノン文書〉と前2世紀の役場書記メンケスの遺箋である。ただし全体としてはローマ時代のものが断然多い。
1930年代の収集段階でギリシア語パピルスは約4万~6万点で,その後も数を加えている。大部分は未刊の状態だが,刊本となったものは収蔵単位の約150の集成に登載されている。金石学におけるような統一された集大成はない。金石学に比しパピルス学の困難さは,1枚のパピルスが幾片にもちぎられて各地・各国に分売されうることである。したがってパピルス学ほど国際的情報連係が必要な学問はなく,早くから国際パピルス学会がつくられた(1930)。本部はブリュッセルにあり,3年ごとに持回りで開かれる。パピルス学の専門誌も数点あり,テキストの訂正を総覧する備要も不定期に刊行される。
→金石学
執筆者:金澤 良樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報