金属や石など硬質の素材に刻まれた文,すなわち金石文(碑文)を考察対象とする学問。碑文学ともいう。金石文はオリエント,ギリシア・ローマ,インド,中国,朝鮮,日本など世界各地に伝存し,それぞれについて研究が進められている。
ギリシア・ローマの金石文は,量質ともに豊富であるうえ,テキストの収集・校訂・刊行もきわめて盛んであって,古代ギリシア・ローマ史研究のうえで重要な役割を果たしている。ギリシア金石文は,通常,大理石などの石,青銅や鉛といった金属を刻文のための素材とし,それらの板に古代ギリシア語を刻んだものを指すが,石壁・石像,陶器・陶片への刻文をも同時に含む。これらの金石文は,古代ギリシア人が居住し,生活していた全域より出土し,その年代分布も前8世紀後半から後4世紀末におよぶ。金石文への言及あるいはテキストの収集・公刊は,すでに古代ギリシアの著作家たちによってなされ,近代においてはルネサンス期と啓蒙主義時代にテキストの収集と刊行が行われているが,今日のギリシア金石学の基礎が据えられたのは,19世紀の前半,ドイツの古典文献学者A.ベックの指導のもとに組織的なテキストの収集・校訂・刊行が企てられたことによる。その後,考古学の発展につれてギリシア金石文は加速度的にその数を増し,テキストの校訂も精緻の度を加えている。これらの成果はすべて専門誌に公表され,《インスクリプティオネス・グラエカエInscriptiones Graecae》(1873- )をはじめとする碑文集に集成されている。ギリシア金石文の内容はすこぶる多岐にわたり,古代ギリシアの政治・法制・経済・社会の実情を知るうえに不可欠の知見を提供する。それらは公文書と私文書とに大別され,前者には法律,条約,財政文書,宗教関係の規定,顕彰決議などが,また後者には墓碑銘,遺言状,抵当標石,奴隷解放文書などが含まれる。オストラキスモスに用いられた多数の陶片も金石学の対象と目される。
古代のギリシアとローマは,巨視的に眺めれば,同じ世界に属するために,ラテン語で記される古代ローマの金石文も,基本的にはギリシアの場合と共通する点が多い。刻文年代は前7世紀末から古代末期にいたるが,帝政初期への集中がかなり著しい。ラテン碑文学は,モムゼンの首唱のもとに19世紀ドイツで企てられたラテン語金石文の集成《コルプス・インスクリプティオヌム・ラティナルムCorpus Inscriptionum Latinarum》(1853- )の刊行によって,その基礎が築かれた。ラテン碑文の場合,刻文形式のうえで目を引くのは,省略記号を頻用することと,文の定型化が著しいことである。内容は,ギリシア碑文と同じく,公・私の文書に大別され,それぞれのなかにまたさまざまな規定や記録が含まれる。それらは古代ローマ人の公・私の生活の全域を覆い,ローマ史研究のための重要な史料をなすが,《業績録》のような皇帝の功業を詳述する大碑文,ディオクレティアヌス帝の〈最高価格令〉に代表される皇帝の勅令,多様な軍隊関係の文書といったように,ローマ帝国の成立と発展の結果,都市国家の世界であるギリシアでは見られぬ内容のものも,少なからず残されている。
執筆者:伊藤 貞夫
今日では,殷・周時代の青銅器に刻された銘文(金文)や秦・漢以後の石刻文を研究する学問をいう。旧中国では,印璽(いんじ),封泥(ふうでい),瓦当(がとう),磚(せん)や鏡鑑,貨幣,刀剣などに刻印された文字や甲骨文なども金石の範疇に入れたが,学問の細分化精密化とともに,現在では,貨幣,印璽,甲骨などの文字は別個に取り扱われている。
鐘鼎彝器(しようていいき)などと総称される,天地・祖宗の祭祀を中心に用いられた殷・周の青銅器には,銘文のあるものが多い。殷代はまだ銘文も少なく,記号的要素が強いが,西周の青銅器は毛公鼎の497字を最大に,長い内容豊かな銘文を備えるようになる。この金文に学問的関心が寄せられるようになったのは宋代からで,1063年(嘉祐8)の欧陽修の《集古録跋尾(ばつび)》が最初といえる。彼の友人劉敞(りゆうしよう)(1008?-69)も《先秦古器図》を著し,科学者沈括(しんかつ)も古銅器に関心を寄せていた。現存する最古の青銅器図録は1092年(元祐7)の呂大臨(1042?-90?)の《考古図》で211点の古銅器の器形と銘文解釈が試みられている。呂大臨より30年のち,徽宗皇帝が鋭意収集した青銅器をもとに《宣和博古図》30巻が作られた。古銅器の名称は,現在でもこれに依拠する部分が多い。南宋初め,薛尚功(せつしようこう)はこれらをもとに数多くの金文を集めた《歴代鐘鼎彝器款識(かんし)法帖》20巻を著し,本格的金文研究の先駆者となった。
元・明時代,金石文の研究は一時下火となったが,清代,考証学の興隆とともに再び活発化した。1755年(乾隆20),乾隆帝は徽宗にならって図録集《西清古鑑》40巻を勅撰して気運を盛り上げ,1804年(嘉慶9),阮元(げんげん)が薛尚功を継承して《積古斎鐘鼎彝器款識》10巻を刊行した。この書は,こののち器形からひとまず離れ銘文だけを研究する清朝金文学,文字学に大きな影響を与えた。19世紀の後半になると金文学も多岐に分かれる。江南では蘇州の潘祖蔭(はんそいん)とその弟子呉大澂(ごだいちよう)や,瑞安の孫詒譲(そんいじよう)が著名で,呉大澂の《説文古籀補(せつもんこちゆうほ)》14巻は,金石文と《説文(せつもん)》を対照し,金文解読の正しい出発点を作ったものとして,《愙斎(かくさい)集古録》26冊とともに不朽の業績とされる。また山東の陳介祺(ちんかいき)や呉式芬(ごしきふん)も青銅器の収集,鑑識と金文解読に卓越していた。民国に入り,王国維が出ると,金文研究は飛躍的に前進する。器形と金文書体への新しい解釈,他の文献史料との有機的結合によって,金文を使った古代史研究に新しい時代が画された。王国維に材料を提供したのは羅振玉で,金石資料の収集と刊行にも大きく貢献した。
民国時代の殷墟をはじめとした各地での青銅器発見,新中国成立以後の発掘調査のめざましい進展によって金文資料は著しく増加した。王国維からあとの金文学は,《両周金文辞大系》ほか多数の著作を残した郭沫若,《商周彝器通考》で知られる容庚(ようこう)らによって継承されている。また日本でも貝塚茂樹,白川静らの金文学者が優れた業績を生み出した。ただ中国では郭沫若を中心に,唯物史観の時代観に立脚した金文解釈が主流を占め,日本の学者の金文理解と意見の相違が少なくない。しかし文献史料の限られる西周史の再構成のために第一資料である金文研究の重要性はきわめて高い。
石刻は,先秦のものといわれる石鼓文,秦の始皇帝の6ヵ所の碑石文(秦刻石)が最も古いが,文章を刻した碑文が普遍化するのは3世紀以後である。漢の碑石は上部に穿(せん)と呼ぶ丸穴をあけるが,しだいにそれがなくなり,上部中央に題額,その下に文章,碑の両側と裏面に題名(人名)を刻む形式も定まってくる。南北朝時代になると台座(趺(ふ))の上に碑をのせ,華麗な彫刻で飾るようになる。石刻の種類は多いが神道碑,墓誌銘,紀功碑,石経などが中心で,また碑碣のほか磨崖(まがい)碑もある。これらを材料に拓本や写真などで文字,歴史,書などを研究するのが石刻研究である。この学問も欧陽修の《集古録跋尾》に始まるがこの書は10巻中9巻が石刻で占められている。宋の石刻の学は,北宋末の趙明誠《金石録》30巻,南宋洪适(こうかつ)の《隷釈》27巻,《隷続》21巻と続く。金文と同様に研究の次の頂点は清代で,顧炎武《金石文字記》6巻,朱彝尊(しゆいそん)《金石文字跋尾》6巻がその口火を切った。
石刻研究は,石刻と歴史文献との差異を考証する方向と,文字を書法,芸術作品として扱う方向に大別される。銭大昕(せんたいきん)《潜研堂金石跋尾》20巻は前者の,翁方綱《復初斎文集》は後者の代表的著述である。石刻研究はさらに進み,畢沅(ひつげん),阮元などの大学者により地方別に石刻を編纂することが行われた。また数多い地方志類にも,金石の目(もく)が立てられ石刻を収載することが通例化した。さらにあらゆる石刻を時代順に網羅,編纂する事業もすすみ,王昶(おうちよう)の《金石萃編(すいへん)》160巻(1805)とそれを補った陸増祥の《八瓊室(はちけいしつ)金石補正》120巻ができあがった。このほか全国の石刻の目録として孫星衍(そんせいえん)の《寰宇(かんう)訪碑録》が有名であるほか,葉昌熾の《語石》10巻も旧中国の石刻学の精髄をうかがうことができる。これら書物のほとんどは《石刻史料新編》としてまとめられている。女真文字碑,唐蕃会盟碑をはじめとした非漢民族関係の石刻資料や,近世の田土関係の石刻などは,文献の空白をうめる重要な役割を果たしてくれる。
執筆者:梅原 郁
金石文を歴史叙述に用いることは,すでに《日本書紀》において試みられているが,14世紀には臨済僧虎関師錬(こかんしれん)(1278-1346)が《元亨釈書》(1322)に,〈日本国首伝禅記〉断切の残碑を判読して唐僧義空伝に援用し,あわせて欧陽修の《集古録》を紹介している。しかし日本では宋代の金石学は広まらず,江戸時代に入り《大日本史》が編さんされるころにようやく,歴史が考証的に研究されはじめ,那須国造碑など金石文への注意が払われるようになった。その後,元禄時代以降,鐘銘,碑文などの収集が行われ,松平定信は《集古十種》(1800)を編み,寛政当時の金石・考古資料の集成を試みている。こうした背景のもとに江戸時代後期にいたって,日本の金石学は国学や清朝の考証学の影響下で本格的となった。
国学者狩谷棭斎(かりやえきさい)(1775-1835)の《古京遺文》は,実地踏査に基づく精緻な考証によって,金石文研究史上の金字塔とされている。明治以降,西洋的な歴史学の概念から,国史学の補助学としての金石学が注意されるようになったが,実際には国史学,考古学,美術史学の境界領域にあるため,民間の研究者を含めた各方面の研究者によって,個別的に研究が進められてきた。木崎愛吉《大日本金石史》(1921),藪田嘉一郎《日本上代金石叢考》(1949),坪井良平《日本古鐘銘集成》(1972),福山敏男《中国建築と金石文の研究》(1983)などは,その代表的成果である。近年になって,関係分野の研究者が合同で総合的な調査・研究を行うことも現れてきている。飛鳥資料館《飛鳥・白鳳の在銘金銅仏》(1976),《日本古代の墓誌》(1977)などは,この例である。
執筆者:東野 治之 ところで従来の研究では,主として拓本や写真にたよって解読を行ってきたが,近年になって,X線写真,赤外線写真などの活用,あるいは修復技術の向上によってこの方面の研究が大いに進んでいる。埼玉県埼玉稲荷山古墳出土の辛亥銘鉄剣,島根県岡田山古墳1号墳出土の額田部銘鉄刀,兵庫県箕谷古墳出土の戊辰銘鉄刀など,金石資料のきわめて乏しい6世紀以前の銘文の発見は,その成果として注目されている。
→金石文 →金文
執筆者:町田 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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中国で、青銅器銘文研究が金文学で、亀甲(きっこう)や獣骨に刻まれた文字の研究が甲骨学であり、この二つのほかに、古銭、印璽(いんじ)、石刻、玉、陶器、瓦磚(がせん)、竹木などに記された文字の研究を総称して金石学とよぶ。金石学は、宋(そう)代の欧陽修(おうようしゅう)(1007―72)の『集古録跋尾(しっころくばつび)』に始まるとされている。欧陽修の書は、それまでの古文字学、経学、歴史学の成果のうえに成ったものである。宋代以後、清(しん)代の考証学の隆盛とともに金石学はより精密さを加えたが、中華民国期の殷墟(いんきょ)発掘を契機として科学的調査発掘の重要性が認識されるに至った。中華人民共和国の成立後、考古遺物の発掘が相次ぎ、金石学に付きまとう真偽問題にも新たな視点が導入されつつある。
[武者 章]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しかし,60年代に始まる開発の波は全国をおおい,研究者は破壊される遺跡の緊急調査に追われている。 中国では,銘文のある遺物を研究する金石学が宋代以来の古い伝統をもっており,清朝末期には甲骨文の研究によって,伝説の王朝と見なされていた殷王朝の実在を証明し,その都が河南省安陽にあったことを確認するという大きな成果をあげているが,純粋な考古学的研究は外国人学者によって開かれた。外人学者のなかでは,スウェーデン人J.G.アンダーソンの活躍が著しい。…
…ハードな面としてはパピリ(パピルスの複数形)現物の復元処理,原本の判読・校訂,校本の公刊といった技術的・専門的な分野を根幹とし,そのうえにパピルス・テキストを駆使しての古典文献学,古代法,主としてプトレマイオス朝およびローマ時代のエジプト史,キリスト教文献学などのソフト面を含む。古典古代の歴史研究の補助学として,金石学と双璧をなす。19世紀末から20世紀初頭にかけて学問体系として成立したが,その多くをウィルケンUlrich Wilcken(1862‐1944)に負う。…
※「金石学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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