ヘレニズム時代のエジプト王朝(前305/304~前30)。全15代、初代のサトラップ(太守)時代を含めて294年間続いた。ヘレニズム四王国のうちもっとも栄え、存続期間も長い。創建者はマケドニアの貴族ラゴスLagosの子で、アレクサンドロス大王の部将だった自称「ディアドコイ(後継者ら)」の1人、プトレマイオス1世Ptolemaios Ⅰ(在位前305/304~前283/282)。家門からラゴス朝ともいう。
マケドニア人王家の下、来住のマケドニア人、ギリシア人が官僚や傭兵(ようへい)として支配層に参加し、エジプト人は被支配民とされて完全な外来者支配型の国家がつくられた。初期には東地中海に攻勢を持し、小アジア南域(カリア、キリキア)、キプロス、エーゲ海の島々、西方のキレナイカ(リビヤ)まで領域を伸張。国内経営も充実し、エジプト史始まって以来の国土活用が進められて、ヘレニズム諸国中第一の富を誇った。全国土はすべて王個人の所有物という原理で、穀物、植物油、畜産品、林業、織布、ビール醸造、パピルス製造など全産業の王家による独占体制が確立され(収税法)、神官層以外のほとんど全住民が「王の農民」ないし「ヒポテレイス(役民)」としてこの生産体制に稼働された。在地の諸神殿や祭司層には特権を認めて支配に協力させるなど、収奪以外はファラオ時代以来の伝統社会をなるべくいじらず、ギリシア化政策もことさらな差別政策もなかった。ギリシア風な市民法の都市としてはアレクサンドリアとプトレマイス(中部)しか新設せず、これらは行政上「コーラ(国土)」には含まれなかった。首都アレクサンドリアにはプトレマイオス2世(在位前285~前246)治下古代随一の大図書館が竣成(しゅんせい)し、以後当市は古代世界の学問の中心となった。
紀元前3世紀後半以後は英主が出ず、軍事的失敗や外交の拙劣、加えて原住民反乱が続発し始め、国力は急速に低下する。南のテーベ地方は前2世紀初頭以来蜂起(ほうき)の巣となり、上エジプトは前85年に至るまでほとんど失われ続けた。各地に起こった反抗は民族的対立というよりも、官憲の悪政によるものだった。過重負担と安易な徴税請負方式とが民力を極度に疲弊せしめた。租税未納にあえぐ民衆はしばしば逃亡した。負担を宥免(ゆうめん)し恩典を約束する「宥恕(ゆうじょ)」が頻繁に渙発(かんぱつ)されたが、真意は収奪確保のためであった。そのもっとも早い例は有名なロゼッタ石刻文(前196年の神官総会決議)のなかにもあるが、それは土着勢力に対する徐々の譲歩で、王権の後退を示すものであった。前2世紀以降一般にエジプト化の様相が色濃くなってくる。最大の害悪は王家そのものの内部腐敗だった。2世に始まる王の姉弟(兄妹)婚は、ごくわずかの例外を除いて4世以降しだいにこの王家の近親相姦(インセスト)の伝統として定常化したが、姉と姪(めい)とを妻にした8世閨室(けいしつ)の複雑な関係は、骨肉の内訌(ないこう)が国家の全面的内乱(前132/131~前124)にまで発展した最悪の事例である。近親相姦による共同統治者としての母や妻の権勢は、末期王朝の国政をしばしば彼女らの影響下に置いた。もっとも致命的な失策はローマへの対応であって、ローマとは最初から友好関係を続けてきたが(前273修好。第二次ポエニ戦争には中立)、これが前2世紀以降かえってその干渉を招く結果となった。加えて、内争や財政難への救いをローマに頼ったため、王国をローマへの従属に陥れた。最後はローマの外圧によるクレオパトラ7世(在位前51~前30)の悲劇を残して、王朝は滅亡する。
[金澤良樹]
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前304~前30
プトレマイオス1世によって創建されたエジプト王国の王朝。第3代プトレマイオス3世(在位前246~前221)のときに最大の領土を得て王国は繁栄の頂点に達したが,以後王室の内紛,内乱,敗戦などが重なってしだいに衰えた。前30年ローマのエジプト征服,第15代クレオパトラ7世とその子カイサリオンの死により王朝は断絶した。
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