日本大百科全書(ニッポニカ) 「ひげ」の意味・わかりやすい解説
ひげ
髭、鬚、髯の文字を書いて「ひげ」と読むが、男性の口の上、ほお、あごなどに生える硬い毛のことをいう。本来は三字とも意味が違う。髭(し)は口ひげ、鬚(しゅ)はあごひげ、髯(ぜん)はほおひげのことである。薄い口ひげは動物の名を借りて泥鰌(どじょう)ひげ、ほおからあごにかけて生えるいかついひげは豪快な姿の鍾馗(しょうき)からとって鍾馗ひげと称するなど、ひげの呼び名は多い。『春日権現霊験(かすがごんげんれいげん)記』にもいろいろな形のひげが描かれている。ひげは仏教伝来以後、剃(そ)ることが行われたが、戦国の世になると武士、公家(くげ)ともにその威厳を示すために競ってひげを蓄えた。ことに一文字的なものを、後世、天神ひげと称し、ほおひげは、中国・三国時代の武将関羽のような勇壮な姿を感じさせるところから、武士の間にもてはやされた。しかし江戸時代、町奴(まちやっこ)が市中に勢力を張るようになって、ほおひげにも変化が生じ、一般の町人の間ではひげを蓄える風俗は下火となっていった。
明治になると軍人の間からふたたびひげが流行し、ことにドイツ皇帝ウィルヘルム2世のひげはカイゼルひげとよばれ、口ひげの先端をピンとはねた形がまねられた。日本では、長岡外史(がいし)将軍(陸軍中将)の口ひげが飛行機のプロペラのような形をしていたところから、プロペラひげといわれた。また、映画俳優のコールマンから出たコールマンひげ、チャップリンのような鼻の下にちょっぴりつけたものをチョビひげともいった。大正から昭和初期にかけては、ひげは僧侶(そうりょ)、漢学者、文学者、教師、医師など一部の人たちにしか行われなかったが、第二次世界大戦後、若者の間にひげの流行が盛衰している。
[遠藤 武]
西洋
英語では元来、包括して一語で表す「ひげ」の語はなく、口ひげ(髭)moustache、あごひげ(鬚)beard、ほおひげ(髯)whiskersの3種にそれぞれ区分されている。しかし、これらが続いている場合、bearded(ひげのある)で表されることがあるのは、たぶん、あごひげを「ひげ」の代表とする意識があることの証拠でもあろう。
ひげは昔から権威の象徴として、あるいは男らしさのしるしとして考えられてきた。古代エジプトやメソポタミアでは元来、あごひげを伸ばしていたが、のちには付けひげに変わり、地位の高低はその長さで示された。とりわけメソポタミアでは、あごひげのない男性は嘲笑(ちょうしょう)された。古代ギリシア・ローマでは、哲学者や学者はひげを伸ばしたが、そのほかの男性は剃(そ)るのが普通であり、この習慣は近代以降にも継承されている。中世の大半は教会の内外でひげを規制する動きがみられた。初期には支配階級はあごひげを伸ばす習慣で、ある場合、他人のひげに触ったり、剃ることは恥辱と考えられた。またローマ教会の僧はひげを剃り、ギリシア教会の僧はひげを伸ばしていた。中世中期、男性のひげは消えつつあったものの、十字軍遠征以後の一時期は、あごひげが重んじられた。12、13世紀のフランスではひげは流行しなかったが、中世末期になると復活してくる。この傾向は16世紀にも引き継がれ、ひげに関するさまざまな型や名称が現れる。フォークひげ、角型ひげなどはその一例である。17世紀には概してひげは自由であり、ヘンリー8世もそれを許可してはいるものの、この期のかつらの発達は逆にあごひげの衰退をもたらした。同じ傾向は18世紀にもみられた。しかし、19世紀にふたたび復活をみせ、初期にはほおひげが流行、中期にはひげについてさまざまの論争があり、末期にはおもに口ひげだけが残った。20世紀はひげの歴史にとってまさしく不毛時代となったが、1970年代になるとふたたび若者層に復活してきたのが注目される。
[石山 彰]
生物におけるひげ
動物の頭部、多くは口の周りに生えた毛、あるいは毛状突起をいう。哺乳(ほにゅう)類のひげは、口の周りに生えた、体毛より長いまばらな毛で、ネコやイヌなどの食肉類や、ネズミなどの齧歯(げっし)類などほとんどにみられ、触覚に関係する。魚類では、ナマズやドジョウのように泥底にすむものは口の周りに毛状突起があり、触角や化学感覚に利用している。そのほかの動物でも、起源の異なる雑多なものが、その形や機能の類似から「ひげ」とよばれる。昆虫や環形動物の口器の周りの毛状突起がそれである。ヒゲクジラ、ヒゲガラなど、感覚器とは関係ないが形や模様が類似するものを有することから、ヒゲの名を冠した動物もある。
なお、植物でもつるの先端などを巻きひげ、単子葉類の根をひげ根などとよぶ。
[和田 勝]
『渋沢敬三編『日本常民生活絵引 第三巻』(1966・角川書店)』▽『流行月報社編・刊『東京流行月報』(1950~1951)』