日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビアード」の意味・わかりやすい解説
ビアード(Peter Beard)
びあーど
Peter Beard
(1938― )
アメリカの写真家、美術家、エッセイスト。ニューヨーク生まれ。エール大学卒業後、1961年にケニアに移住する。少年時代からの憧れだった作家アイザック・ディネーセンIsak Dinesen(1885―1962)の隣人となり、狩猟旅行に出かけたり、ツァボ国立公園で動物管理の仕事を手伝うなど、充実した日々を過ごした。この間に、ツァボの野生動物たちの写真を本格的に撮影し始める。
その成果は、初の著書『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』The End of the Game(1965)にまとめられ、高い評価を受けた。密猟と、旱魃(かんばつ)による食糧不足で倒れた象たちの死骸を撮影した最終章は、息を呑(の)むようなイメージの集積であり、自然環境を破壊してきた人間たちに対する痛切な告発となっている。
アフリカの野生動物たちの運命と人類の未来とを重ね合わせるような視点は、次の著書である『夜明けの瞼(まぶた)』Eyelids of Morning(1973)にも見られる。ケニア北部、トゥルカナ湖で行われたナイルワニの生態調査に基づく同書では、豊富な写真とイラストを駆使して、太古から続いてきたワニと人間との関わりが、時にはショッキングに、時にはユーモアを交えて綴(つづ)られている。
一方ビアードは少年のころから、文章だけでなくイラストや彼が拾い集めてきたさまざまなオブジェをコラージュした、独特の「日記」を作り続けてきた。この「日記」はケニア移住後には、より渾沌とした体裁になり、ページにはびっしりと暗号めいた記号や文字が書き込まれ、新聞や雑誌などから切り抜かれた写真や個人的な書簡、メモなどが貼り込まれた分厚いものになっていった。
職業を問われれば、「日記制作者」と答えるという彼にとって、それは単なる個人的な記憶の貯蔵庫というだけでなく、むしろ現代文明をあらゆる角度から探索し、自問自答を繰り返す彼自身の精神の軌跡を刻みつけた、魔術的な呪具のようになりつつあるように見える。これらの「日記」は、80年代からは彼自身が撮影した写真(石ころ、骨、植物、身体の一部などにより再構成したイメージ)の形で発表されるようになり、特異なアート作品としての評価も高まっている。
ビアードは90年代以降も、写真、映画、エッセイ、そして「日記」の制作など、さまざまな領域に関わる刺激的な仕事を続けている。92年には、ケニアからタンザニアにかけて住むマサイ族の工芸品について論じた『マサイの芸術』The Art of Maasaiを刊行した。93年には、ジャーナリストのジョン・バウアマスターJon Bowermaster(1955― )による伝記『ピーター・ビアードの冒険』The Adventures and Misadventures of Peter Beard in Africaも出版され、現在はニューヨークとケニアを拠点として旺盛な活動を続ける彼のプロフィールが、より身近なものになった。
[飯沢耕太郎]
『伊藤俊治・小野功生訳『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』』▽『『DIARY』』▽『アリスター・グレイアム著、ピーター・ビアード写真、旦敬介訳『夜明けの瞼――鰐と人の共通の運命』』▽『ピーター・ビアード編、カマンテ・ガトゥラ著、港千尋訳『闇への憧れ』(いずれも1993・リブロポート)』▽『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』▽『ジョン・バウワマスター著、野中邦子訳『ピーター・ビアードの冒険――優雅で野蛮な芸術家の半生』(1997・河出書房新社)』
ビアード(Charles Austin Beard)
びあーど
Charles Austin Beard
(1874―1948)
アメリカ史研究の革新主義学派の代表的な歴史家。インディアナ州に生まれる。デポー大学卒業後オックスフォード大学に留学し、帰国してコロンビア大学で博士号を取得した。1917年までコロンビア大学で歴史および政治学を講義したが、第一次世界大戦中の同年コロンビア大学が平和主義者の教授陣を解職したのに抗議して辞職した。翌年社会調査のための新大学設立に参画するとともに、公務員研修学校長となり、ニューヨーク市の市政調査にも参加した。1922年(大正11)および関東大震災後の翌23年の二度にわたって来日し、東京の市政調査や震災復興計画に協力した。26年にアメリカ政治学会会長に就任し、33年にはアメリカ歴史学会会長を務めた。
学問的にはきわめて多産な研究活動を行い生涯34冊の著作を著したが、現実の政治問題に対しても鋭い政治感覚を有していた。彼が歴史家としての名声を獲得するに至ったのは、1913年に『合衆国憲法の一経済的解釈』を発表したことによってである。この本で彼は、合衆国憲法の制定を推進した「建国の父祖たち」の経済的利害を解明して、アメリカ史における経済的利害の働きの重要性を指摘したが、マクレーカーズとよばれるジャーナリストが種々な社会問題の存在を白日の下にさらし改革運動が進められていた革新主義の時代にあって、彼の見解は、それまで神聖視されてきた合衆国憲法および「建国の父祖たち」を汚すものと受け取られ、学界に賛否両論の大きな波紋を投げかけたのであった。
経済的利害を重視する観点から、ほかに『ジェファソン民主主義の経済的起源』(1915)や『政治の経済的基礎』(1922)などを著したが、しだいに観念の働きにも関心を抱くに至った。最後の著作『ルーズベルトと第二次世界大戦』(1947)では、参戦するために日本の真珠湾攻撃を誘発したとしてルーズベルト大統領の開戦決定を厳しく批判している。
[五十嵐武士]
『斎藤眞解説、池本幸三訳『C・A・ビアード』(1974・研究社出版)』▽『松本重治・岸村金次郎・本間長世訳『アメリカ合衆国史』(1964・岩波書店)』▽『斎藤眞・有賀貞訳編『アメリカ政党史』(1968・東京大学出版会)』