アメリカの写真家、美術家、エッセイスト。ニューヨーク生まれ。エール大学卒業後、1961年にケニアに移住する。少年時代からの憧れだった作家アイザック・ディネーセンIsak Dinesen(1885―1962)の隣人となり、狩猟旅行に出かけたり、ツァボ国立公園で動物管理の仕事を手伝うなど、充実した日々を過ごした。この間に、ツァボの野生動物たちの写真を本格的に撮影し始める。
その成果は、初の著書『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』The End of the Game(1965)にまとめられ、高い評価を受けた。密猟と、旱魃(かんばつ)による食糧不足で倒れた象たちの死骸を撮影した最終章は、息を呑(の)むようなイメージの集積であり、自然環境を破壊してきた人間たちに対する痛切な告発となっている。
アフリカの野生動物たちの運命と人類の未来とを重ね合わせるような視点は、次の著書である『夜明けの瞼(まぶた)』Eyelids of Morning(1973)にも見られる。ケニア北部、トゥルカナ湖で行われたナイルワニの生態調査に基づく同書では、豊富な写真とイラストを駆使して、太古から続いてきたワニと人間との関わりが、時にはショッキングに、時にはユーモアを交えて綴(つづ)られている。
一方ビアードは少年のころから、文章だけでなくイラストや彼が拾い集めてきたさまざまなオブジェをコラージュした、独特の「日記」を作り続けてきた。この「日記」はケニア移住後には、より渾沌とした体裁になり、ページにはびっしりと暗号めいた記号や文字が書き込まれ、新聞や雑誌などから切り抜かれた写真や個人的な書簡、メモなどが貼り込まれた分厚いものになっていった。
職業を問われれば、「日記制作者」と答えるという彼にとって、それは単なる個人的な記憶の貯蔵庫というだけでなく、むしろ現代文明をあらゆる角度から探索し、自問自答を繰り返す彼自身の精神の軌跡を刻みつけた、魔術的な呪具のようになりつつあるように見える。これらの「日記」は、80年代からは彼自身が撮影した写真(石ころ、骨、植物、身体の一部などにより再構成したイメージ)の形で発表されるようになり、特異なアート作品としての評価も高まっている。
ビアードは90年代以降も、写真、映画、エッセイ、そして「日記」の制作など、さまざまな領域に関わる刺激的な仕事を続けている。92年には、ケニアからタンザニアにかけて住むマサイ族の工芸品について論じた『マサイの芸術』The Art of Maasaiを刊行した。93年には、ジャーナリストのジョン・バウアマスターJon Bowermaster(1955― )による伝記『ピーター・ビアードの冒険』The Adventures and Misadventures of Peter Beard in Africaも出版され、現在はニューヨークとケニアを拠点として旺盛な活動を続ける彼のプロフィールが、より身近なものになった。
[飯沢耕太郎]
『伊藤俊治・小野功生訳『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』』▽『『DIARY』』▽『アリスター・グレイアム著、ピーター・ビアード写真、旦敬介訳『夜明けの瞼――鰐と人の共通の運命』』▽『ピーター・ビアード編、カマンテ・ガトゥラ著、港千尋訳『闇への憧れ』(いずれも1993・リブロポート)』▽『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』▽『ジョン・バウワマスター著、野中邦子訳『ピーター・ビアードの冒険――優雅で野蛮な芸術家の半生』(1997・河出書房新社)』
アメリカ史研究の革新主義学派の代表的な歴史家。インディアナ州に生まれる。デポー大学卒業後オックスフォード大学に留学し、帰国してコロンビア大学で博士号を取得した。1917年までコロンビア大学で歴史および政治学を講義したが、第一次世界大戦中の同年コロンビア大学が平和主義者の教授陣を解職したのに抗議して辞職した。翌年社会調査のための新大学設立に参画するとともに、公務員研修学校長となり、ニューヨーク市の市政調査にも参加した。1922年(大正11)および関東大震災後の翌23年の二度にわたって来日し、東京の市政調査や震災復興計画に協力した。26年にアメリカ政治学会会長に就任し、33年にはアメリカ歴史学会会長を務めた。
学問的にはきわめて多産な研究活動を行い生涯34冊の著作を著したが、現実の政治問題に対しても鋭い政治感覚を有していた。彼が歴史家としての名声を獲得するに至ったのは、1913年に『合衆国憲法の一経済的解釈』を発表したことによってである。この本で彼は、合衆国憲法の制定を推進した「建国の父祖たち」の経済的利害を解明して、アメリカ史における経済的利害の働きの重要性を指摘したが、マクレーカーズとよばれるジャーナリストが種々な社会問題の存在を白日の下にさらし改革運動が進められていた革新主義の時代にあって、彼の見解は、それまで神聖視されてきた合衆国憲法および「建国の父祖たち」を汚すものと受け取られ、学界に賛否両論の大きな波紋を投げかけたのであった。
経済的利害を重視する観点から、ほかに『ジェファソン民主主義の経済的起源』(1915)や『政治の経済的基礎』(1922)などを著したが、しだいに観念の働きにも関心を抱くに至った。最後の著作『ルーズベルトと第二次世界大戦』(1947)では、参戦するために日本の真珠湾攻撃を誘発したとしてルーズベルト大統領の開戦決定を厳しく批判している。
[五十嵐武士]
『斎藤眞解説、池本幸三訳『C・A・ビアード』(1974・研究社出版)』▽『松本重治・岸村金次郎・本間長世訳『アメリカ合衆国史』(1964・岩波書店)』▽『斎藤眞・有賀貞訳編『アメリカ政党史』(1968・東京大学出版会)』
アメリカの歴史学者。いわゆる革新主義学派の領袖として1930年代のアメリカの史学界,教育界に多大の影響を与えた。オックスフォード大学留学後コロンビア大学大学院に学び博士号を得,同大学で教職についたが,のち1917年学問の自由の問題と関連して辞職する。1913年《合衆国憲法の経済的解釈》を刊行,憲法制定者たちの経済的利害関係を分析し,毀誉褒貶(きよほうへん)の的となった。その続編にあたるいくつかの著書を発表した後,27年《アメリカ文明の興隆》を刊行,同書はアメリカ史の流れを保守と革新との対立としてとらえ,教科書として広く使用され,アメリカ史を学ぶ者の必読書となった。ビアードには,社会科学研究,政治学,都市行政についての著書も多いが,1922年後藤新平東京市長に招かれて来日,《東京市政論》(1923)を記し,関東大震災後に再度来日,日本にも知己が多い。アメリカ外交についても多くの著書を刊行しているが,現実主義的観点からアメリカの海外への過剰介入を戒めている。ことにフランクリン・ローズベルト大統領の参戦外交を批判した《ローズベルトと1941年の開戦》(1948)は,孤立主義的言辞として強い批判を受けた。ビアードは,50冊余りの著書を刊行,広い読者を有していたが,その信念の率直な表明のゆえに批判者も多く,孤独な晩年を送った。なお,夫人Mary Ritter Beard(1876-1958)も歴史学者であり,ビアードとの共著が多い。
執筆者:斎藤 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…内相で帝都復興院総裁を兼任した後藤新平の帝都復興都市計画は,激しい反対のなかで縮小され(当初30億円計上された復興費は12億円に削減),後の東京の発展に禍痕を残した。ちなみにこの計画の基本方針としては,遷都はしないこと,ニューヨーク市政調査会理事ビアードCharles Austin Beard(1874‐1948)に委嘱して欧米式の最新の都市計画を採用すること,地主に対して断固たる態度をとることがあった。大震災を契機に近郊の隣接町村への人口移動が始まり,東武,西武,東急,小田急各線の開業や電化が進んで,東京の市街地は西ないし南西部へと急激に膨張し始めた。…
…1919年,政府は都市計画法と市街地建築物法を制定し,無秩序な都市形成の規制を図るが,都市自治体には計画権限は付与されなかった。22年,当時東京市長であった後藤新平は東京市政調査会を設立,アメリカからビアードCharles Austin Beardを招聘し東京市政の調査をゆだねた。彼の《東京市政論The Administration and Politics of Tokyo》(1923)は,都市行政論の名著とされる。…
…移民の国として成立したアメリカの場合,社会的利害の調整のために同一利害の上に立つ人々の集団的発言が不可欠であり,またそれが社会的に容認されていたからである。アメリカの政治学者C.A.ビアードが,アメリカ連邦憲法の制定過程を検討して,この憲法がさまざまな経済利益間の競合・妥協の産物であると論じたのも,ゆえなしとしない。その後のアメリカにおける圧力団体の発展はますます目覚ましく,19世紀の30年代にアメリカを視察したトックビルが,〈世界中でアメリカにおけるほど,結社の原理が,多数の異なった目的に対して,成功的に用いられ,あるいは惜しみなく適用されてきた国はない〉(《アメリカの民主主義》1835‐40)と賛嘆したことは有名である。…
…
[革命の解釈]
アメリカ革命に対しては,大きく二つの解釈が分かれている。一つは,アメリカ革命をフランス革命と同様に,すぐれて革命的な革命であったとする解釈で,C.ビアードなどによる革新主義学派の解釈である。それに対し,アメリカ革命は革命というよりイギリスからの政治的独立であり,アメリカ内に関するかぎり革命的なことではなかったとする解釈であり,19世紀末以来の帝国学派,1950年代の新保守主義学派による解釈である。…
…内相で帝都復興院総裁を兼任した後藤新平の帝都復興都市計画は,激しい反対のなかで縮小され(当初30億円計上された復興費は12億円に削減),後の東京の発展に禍痕を残した。ちなみにこの計画の基本方針としては,遷都はしないこと,ニューヨーク市政調査会理事ビアードCharles Austin Beard(1874‐1948)に委嘱して欧米式の最新の都市計画を採用すること,地主に対して断固たる態度をとることがあった。大震災を契機に近郊の隣接町村への人口移動が始まり,東武,西武,東急,小田急各線の開業や電化が進んで,東京の市街地は西ないし南西部へと急激に膨張し始めた。…
…1919年,政府は都市計画法と市街地建築物法を制定し,無秩序な都市形成の規制を図るが,都市自治体には計画権限は付与されなかった。22年,当時東京市長であった後藤新平は東京市政調査会を設立,アメリカからビアードCharles Austin Beardを招聘し東京市政の調査をゆだねた。彼の《東京市政論The Administration and Politics of Tokyo》(1923)は,都市行政論の名著とされる。…
…腐敗の粛正,行政の能率化,科学化を求めて市政改革city reformの運動が高まった。その中心人物C.ビアードが東京市長後藤新平に関東大震災の前後2回招かれ,その成果を日本に伝え,雑誌《都市問題》の創刊(1925)にも寄与した。さらにこの前後の日本では,大正デモクラシーの名に伴う形で後藤を助けた池田宏や大阪の名市長関一をはじめ多くの人材が出て,上記のような問題の把握からする都市計画の推進や,新しく広がる失業・貧困に対する社会政策事業の拡大を唱えた。…
※「ビアード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新