フランクリン(読み)ふらんくりん(英語表記)John Hope Franklin

デジタル大辞泉 「フランクリン」の意味・読み・例文・類語

フランクリン(Benjamin Franklin)

[1706~1790]米国の政治家・科学者。出版印刷業者として成功。稲妻の放電現象を研究し、避雷針を発明。独立宣言起草委員となり、憲法制定会議にも出席した。

フランクリン(Aretha Franklin)

[1942~2018]米国のソウル歌手。力強い歌声で1960年代から活躍。1967年には「リスペクト」がヒットし、グラミー賞を受賞。その後も数多くのヒット曲を残し「ソウルの女王」と称された。1987年には、女性として初めてロックの殿堂入りを果たした。

フランクリン(John Franklin)

[1786~1847]英国の探検家・軍人。北極を探検し、北西航路を探査中に死亡。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「フランクリン」の意味・読み・例文・類語

フランクリン

  1. ( Benjamin Franklin ベンジャミン━ ) アメリカの政治家、著述家、科学者。出版印刷業者として成功し、避雷針の発明や、稲妻の放電現象の証明など科学の分野をはじめ、図書館・高等教育機関の創立などの文化事業にも貢献。アメリカ独立宣言起草委員、フランス駐在大使を務めた。「フランクリン自伝」は有名。(一七〇六‐九〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン
Benjamin Franklin
生没年:1706-90

アメリカの政治家,文筆家,科学者。〈代表的アメリカ人〉と呼ばれる。ボストンのろうそく屋に生まれ,印刷業を営む兄の下で徒弟として勤め,1723年フィラデルフィアに移る。24年イギリスに渡り印刷技術をみがき,1726年に帰米後印刷・出版業に従事,《ペンシルベニア・ガゼット》紙の発行者となる。ことに32年より売り出された処世訓,格言を付した《貧しいリチャードの暦》は大衆的な読物として好評を博し,年間1万部売れ,啓蒙的な思想家としての彼の名を高めた。印刷・出版業の成功で財をなしたフランクリンは経営をパートナーにまかせ,科学・学術の分野での活動,政治的活動に専念した。しかし,生涯〈印刷業者フランクリン〉と自称した。

 1727年にすでに〈ジャントーJunto〉と称する読書・討論クラブを組織していたが,31年にはアメリカ最初の巡回図書館を経営,36年には消防組合を組織,43年にはアメリカ学術協会を設立,51年には宗教と関係のない近代的学校の設立を考えフィラデルフィア・アカデミーペンシルベニア大学の前身)を創立した。フランクリンはまた自分自身で科学の研究や発明に従事することを好み,1742年にはいわゆるフランクリン・ストーブ(前開き式鉄製ストーブ)を発明し,長年の電気についての研究ののち,52年には凧(たこ)を使って稲妻と電気との同一性を実験したことは有名であるが,その前年には電気の性質についての論文をものにしていた。こうした科学上の活動は,彼の名声をヨーロッパに響かせ,56年にはイギリスのローヤル・ソサエティ会員に選ばれ,オックスフォード大学をはじめいくつかの大学から学位を与えられ,〈フランクリン博士〉の名をもって呼ばれ,ヨーロッパで最も著名なアメリカ人になった。

 フランクリンはまた数多くの政治的活動を行っている。ペンシルベニア植民地議会の書記を務めたのち,同議会の議員(1751-64),植民地の郵便総局長(1753-74)を務め,植民地間の連合を議したオルバニー会議(1754)では,独自の連合案を提案し,採択はされなかったが,彼の政治的関心の広さを示した。57年からはペンシルベニア植民地議会を代表してイギリスに渡り,一時帰米をはさんで,66年には印紙税法廃止のためにイギリスで活動,実質上各植民地の代表となった。75年5月帰米,さっそく第2回大陸会議の代表に選ばれ,初代郵政長官となり,独立宣言の起草ではジェファソンを助け,76年にはフランスの援助をとりつけるためフランスに派遣され,同盟条約(1778)を結ぶことに成功した。フランスにあっては,ボルテールをはじめとする啓蒙主義者と交遊関係を結び,多くのサロンに招かれ婦人たちの間でも人気があった。パリでイギリスとの和平交渉使節の一員となり,82年11月仮講和条約を結ぶことに成功する。85年9月帰国し,ペンシルベニア州行政参事会の議長(知事)を88年まで務め,その間連邦憲法制定会議(1787)には元老として参加,その常識とユーモアで対立する意見の妥協を図った。90年,84歳で世を去ったときにはアメリカ議会は1ヵ月間喪に服し,フランス国民議会も3日間喪に服した。

 フランクリンは《自叙伝》(1771執筆開始)をはじめおびただしい文章を書いており,1959年以来イェール大学により刊行されつつある全集は,完成すれば40巻になるという。彼の著作は,《貧しいリチャードの暦》や《自叙伝》にも示されるように,だれにも読める平易な文章でつづられ,一見通俗的な道学者流の教訓が述べられている。しかし,その基底にあるものは,独立,自由,機会,勤労,成功といった,宗教改革を源泉とし,啓蒙主義を経て脱宗教化したピューリタニズムの基本的価値であった。フランクリンは,まさにM.ウェーバーのいうように〈近代的人間類型〉の古典的見本であり,〈資本主義の精神〉の体現者であったといえよう。彼は代表的アメリカ人であるとともに,また代表的近代人でもあったのである。

 その点,明治維新以降日本が〈近代化〉を目ざすときに,この代表的近代人が一つのモデルとされたことは当然であろう。宮中でも彼の《自叙伝》が講ぜられ,昭憲皇太后がフランクリンの12の徳目を和歌にし,それが華族女学院の校歌にまで発展する。もちろん,フランクリンが広く日本に受け入れられたのは,その自主,独立,勤労の教えのゆえであり,その《自叙伝》は1887年に《名華之余薫》(御手洗清和訳)として訳出され,国木田独歩なども《自叙伝》によりつつフランクリンの伝記(少年伝記叢書第1巻《フランクリンの少壮時代》1896)を公にしている。明治の興隆期に,フランクリンが立志伝中の人としてモデル化されるとともに,他方その現実主義的な教えのゆえに,世俗的功利主義の代表者として,アメリカ文明の物質主義的側面を象徴する存在かのごとくとらえられるに至ったことも否定できない。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン(Benjamin Franklin)
ふらんくりん
Benjamin Franklin
(1706―1790)

アメリカの政治家、印刷業者、著述家、発明家、科学者。ろうそく製造職人の子として1月17日ボストンに生まれる。12歳で兄の経営する印刷所に年季奉公に入り、そこで発行する新聞『ニューイングランドクーラント』に匿名で寄稿するなど文章の練磨に努めた。17歳のとき、印刷工の職を求めてフィラデルフィアに移った。1729年、すでに発行されていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買い取り、1730年には独立してこの新聞の発行にあたった。同年、デボラ・リードDeborah Read(1708―1774)と結婚。1732年から約25年間、リチャード・ソーンダーズの名前で暦を出版、一般市民に勤勉と節約の教訓を諺(ことわざ)風に説いた。これは『貧しきリチャードの暦』として有名になった。また、道路の舗装と清掃、街灯の改善、消防組合の組織など、市民生活の向上に貢献した。1731年会員制貸出し図書館、1743年アメリカ哲学協会、1751年貧民救済病院および大学(後のペンシルベニア大学)の設立に努めた。1736~1751年植民地議会書記、1751~1764年議員、1737~1753年フィラデルフィア郵便局長、1753~1774年植民地郵政長官の公職についた。

 科学技術にも深い関心を寄せており、その方面の業績としては、オープン・ストーブ(フランクリン・ストーブ)の発明(1742)、地震の原因の研究、北東風の起源の研究(暴風が動く風系であることを明らかにした)、海流の研究(帆船による大西洋の経済運航に役だった)、雷の電気および避雷針の研究(1752年に凧(たこ)の実験によって稲妻が電気放電であることを明らかにした)などがある。

 1754年、オルバニー会議にペンシルベニア代表として出席、最初の植民地連合案を起草したが、これは、本国のイギリス政府と各植民地議会の賛同を得られず実施に至らなかった。1755年ブラドックEdward Braddock(1695―1755)将軍のオハイオ遠征を援助、自らも義勇民兵軍を組織して戦った。1757年植民地議会代表として防衛、課税問題折衝のため本国に派遣された。1764年ペンシルベニア王領植民地化の請願のため再度渡英したが、おりしも植民地では1765年に本国議会を通過した印紙法への反対運動が起こり、この撤廃に一役買った。1775年植民地の第2回大陸会議代表に選ばれ、帰国するときには本国との和解への望みを捨て、以後アメリカの独立に尽力した。1776年の「独立宣言」の起草委員となり、同年12月大陸会議代表としてフランスに渡り同盟を結び、1783年のパリ条約締結にはアメリカ代表の一人に選ばれた。この在任中、彼はパリで、世界で最初のころの気球の上昇を見ている。また、1783年に険悪な天気が続いたときは、これがアイスランドの火山噴火の結果おこったことを推論し、気候変化と火山活動を結び付けた世界で最初の論文となった。

 1785年ペンシルベニア行政長官、1787年連邦憲法会議代表となり、会議の調停、満場一致による憲法の承認に努めた。しかし彼自身は連邦憲法に満足せず、自邦の急進憲法を支持した。1790年4月17日フィラデルフィアで死去。彼の実際的性格と現実的考え方は『自伝』によく表れており、代表的アメリカ人といわれるゆえんである。

[白井洋子]

『松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫)』


フランクリン(Aretha Franklin)
ふらんくりん
Aretha Franklin
(1942―2018)

アメリカのリズム・アンド・ブルース(R&B)、ソウル、ゴスペル歌手、ピアノ奏者。テネシー州メンフィス生まれ。父クラレンス・L・フランクリンClarence L. Franklin(1915―1984)はバプティスト派の有名な牧師。5歳のときに父親が教会を設立したデトロイトに移住。8歳から父にピアノを学ぶ。姉のアーマErma(1938―2002)、妹のキャロリンCarolyn(1946―1988)とともに教会でゴスペルを歌い、14歳で初録音。1960年ニューヨークに行き、名プロデューサーのジョン・ハモンドJohn Hammond(1910―1987)に認められてコロンビア・レコードと契約、同年秋に『今日ブルースを歌う』Today I Sing the Bluesがヒットする。ジャズやポップスも録音して数曲のヒット曲を出すが、1966年アトランティック・レコードに移籍してからR&B歌手としての実力を発揮、「クイーン・オブ・ソウル(ソウル・ミュージックの女王)」とよばれる大スターになった。

 グラミー賞の受賞歴は、1967年度R&B録音賞と最優秀R&B女性歌唱賞を受賞したヒット曲『リスペクト』Respectから、ゴスペル・アルバム『ワン・ロード、ワン・フェイス、ワン・バプティズム』One Lord, One Faith, One Baptismでの1988年度最優秀ソウル・ゴスペル女性歌唱賞受賞まで計15回に上る。これは全分野を通じて女性アーティストのグラミー賞最多受賞記録である。映画『マルコムX』(1992)のサウンド・トラックで歌ったダニー・ハサウェイのカバー曲『いつの日か私たちはみんな自由になる』Someday We'll All Be Freeが評判になり、同サウンド・トラックは1993年度グラミー賞最優秀R&B女性歌唱賞にノミネートされた。一方、映画『ブルース・ブラザーズ』(1980)ではウェイトレス役を好演、続編の『ブルース・ブラザーズ2000』(1998)にも出演した。

[青木 啓]

『Aretha Franklin, David Ritz:Aretha;From These Roots(1999, Random House)』『Mark Bego:Aretha Franklin;The Queen of Soul(2001, Da Capo Press)』


フランクリン(Rosalind E. Franklin)
ふらんくりん
Rosalind E. Franklin
(1920―1958)

イギリスのX線結晶学者。ケンブリッジ大学で学び、パリでの研究ののち、キングズ・カレッジのウィルキンズのもとで、DNA(デオキシリボ核酸)のX線結晶学的研究に取り組んだ。DNAの繊維は水分含量により結晶型(A)と濡(ぬ)れた型(B)の2種類のX線図を生じることをみいだし、二つの型がはっきり区別できるよい写真を撮るのに成功した。とくにB型については、1953年、螺旋(らせん)構造であり、その螺旋は34オングストロームで1回転し、その間に10個の塩基を含むこと、またリン酸基の骨格は外側に、したがって塩基は内側にあるなど、重要な知見を含むX線図を得て、J・D・ワトソンとクリックによるDNA分子モデル作成を導いた。のちバークベック・カレッジに移り、タバコモザイクウイルスの構造を研究した。

[石館三枝子]

『アン・セイヤー著、深町真理子訳『ロザリンド・フランクリンとDNA――ぬすまれた栄光』(1979・草思社)』『シャロン・バーチュ・マグレイン著、中村友子訳『お母さん、ノーベル賞をもらう――科学を愛した14人の素敵な生き方』(1996・工作舎)』『ウラ・フェルシング著、田沢仁・松本友孝訳『ノーベル・フラウエン――素顔の女性科学者』(1996・学会出版センター)』


フランクリン(John Hope Franklin)
ふらんくりん
John Hope Franklin
(1915―2009)

アメリカ合衆国の黒人歴史家。オクラホマ州のレンティスビルに生まれ、10歳のとき付近のタルサに移り住む。最初は父のあとを継いで弁護士志望だったが、フィスク大学の学生時代に歴史研究に興味を抱いた。1935年同大学を卒業、ハーバード大学大学院に進み、1936年に修士号、1941年に博士号を取得した。彼の歴史学の特色は、フランクリン以前の黒人歴史家が概して「黒人史の歴史家」だったのに比べて、黒人史を広くアメリカ史の全歴史過程のなかに正当に位置づけ、同時に黒人史の視点からアメリカ史、とりわけ南部史の科学的解明に貢献したことにある。フィスク大学、ハワード大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1964年から16年間シカゴ大学教授、ついでデューク大学教授を務めたり、アメリカ黒人の生活・歴史研究協会、南部歴史学協会、アメリカ歴史家協会、アメリカ歴史学協会などの会長を歴任したのは、このような彼の学問的立場と無関係ではない。膨大な数にのぼる諸著作のなかで、日本で翻訳出版されているものに次の2冊がある。From Slavery to Freedom:A History of Negro Americans(井出義光他訳『アメリカ黒人の歴史――奴隷から自由へ』1978・研究社出版)、Race and History:Selected Essays, 1938―1988(本田創造監訳『人種と歴史』1993・岩波書店)。また社会的諸活動の一環としては、1997年に設けられたクリントン大統領の諮問機関で7人の専門家からなる人種関係委員会の委員長を務めた。外国の大学を含めて授与された名誉学位の数は100を超える。

[本田創造]

『本田創造著『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造』(1964・岩波書店)』『本田創造著『アメリカ黒人の歴史 新版』(岩波新書)』


フランクリン(カナダ)
ふらんくりん
Franklin

カナダ、ノースウェスト・テリトリーズおよびヌナブート・テリトリーにまたがる地区。北米大陸の最北部であるカナダ北極海諸島(バフィン島を含む)、ブーシア、メルビル両半島を含む地域をさす。面積約142万2500平方キロメートル。人口約7000。うち77%はイヌイットとアメリカ先住民で、多くは狩猟生活を営んでいる。1895年に地区が発足し、1897年に領域が確定した。この地域は戦略的に重要で、飛行場、測候所などが設けられている。北西航路発見者フランクリンSir John Franklin(1786―1847)を記念して命名された。

[山下脩二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン
Franklin, Aretha

[生]1942.3.25. テネシー,メンフィス
[没]2018.8.16. ミシガン,デトロイト
アメリカ合衆国の歌手。フルネーム Aretha Louise Franklin。1960年代ソウル・ミュージックの黄金時代を築いた。母はゴスペル歌手(→ゴスペル・ソング),父はデトロイト市内の教会の牧師で,全米に知られた説教師でもあった。6歳のときに両親が離婚。10代の初めから父の伝道活動に同行して全米各地の都市で賛美歌をうたい,天才歌手と称された。18歳のとき,父の賛同を得て宗教音楽から一般音楽へ転向,ニューヨーク市に移り,コロムビア・レコードからデビュー。1966年アトランティック・レコードに移籍し,ルーツであるゴスペルやブルースに立ち戻って飛躍的な成功を収めた。1967年『貴方だけを愛して』I Never Loved a Man(the Way I Love You)が初のミリオンセラーとなった。おりしも公民権運動が高まり,ブラック・アーバン音楽(→黒人音楽)が人気を得た時代であった。フランクリンは「ソウルの女王」とたたえられ,オーティス・レディングのカバー曲『リスペクト』Respect(1967)や自作の『シンク』Think(1968)など次々とヒット曲を発表した。1972年の『アメイジング・グレイス』Amazing Graceのカバーは,時代をこえたゴスペルの傑作の一つに数えられる。1970年代後半はヒットに恵まれなかったが,1982年の『ジャンプ・トゥー・イット』Jump to Itでトップ歌手に返り咲いた。1987年,女性アーティストとして初めてロックの殿堂入りを果たした。

フランクリン
Franklin, Benjamin

[生]1706.1.17. ボストン
[没]1790.4.17. フィラデルフィア
アメリカの文筆家,出版業者,発明家,科学者,外交官,政治家。貧家の 17人兄弟の 15番目に生れ,印刷工になった。 1721年新聞『ニューイングランド・クーラント』紙を創刊。 31年フィラデルフィア読書愛好会を設立,49年にはフィラデルフィア・アカデミー (ペンシルバニア大学) の創設にも協力した。 46~47年電気の研究を行い,雷が電気現象であることを証明し,49年避雷針を考案した。また,正,負の帯電状態を電気流体の過不足として説明した。 51年には有名な『電気に関する実験と観察』 Experiments and Observations on Electricityという書簡集を刊行。 54年オールバニ連合案を立案 (→オールバニ会議 ) 。 64~75年ペンシルバニアの代理人としてイギリスに駐在,65年イギリス議会で印紙税法に対する植民地人の立場を証言。 75年帰国,76年経済・軍事援助を求めるために大陸会議がフランスに派遣した使節団に加わってパリにおもむき,フランスとアメリカ植民地との同盟条約の締結に成功した。 83年パリ条約に調印後もフランスとアメリカとの通商条約の締結に尽力。 85~88年ペンシルバニア議会の議長をつとめた。 87年合衆国憲法制定会議に出席し,対立点の妥協に尽力した。『自叙伝』 Autobiographyは有名。

フランクリン
Franklin, Sir John

[生]1786.4.16. リンカーンシャー,スピルズビー
[没]1847.6.11.
イギリスの北極探検家。 14歳で海軍に入る。 1818年北極探検に参加。 19年カナダ北部で陸路の北極探検を指揮。 25年第2回北極探検に出発し,約 3000kmにわたって北海岸を調査。 29年ナイト爵を授けられた。 36~43年タスマニア総督。 45年北西航路を求めて出発したが,行方不明となり,探検史上まれにみる 134名全員遭難という惨事を引起した。 59年死亡が確認された。フランクリン海峡は彼の名にちなみ命名。主著"Narrative of a Journey to the Shores of the Polar Sea" (1823) 。

フランクリン
Franklin, Frederic

[生]1914.6.13. イギリス,リバプール
[没]2013.5.4. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
イギリスの舞踊家。 1931年カジノ・ド・パリでデビュー,35~37年マルコワ=ドーリン・バレエ団を経て,38年バレエ・リュス・ド・モンテカルロに入り,44年メートル・ド・バレエとなる。 A.マルコワ,A.ダニロワらのパートナーをつとめた。 53年 M.スラベンスカとともに来日し,『欲望という名の電車』を踊って好評を博した。ワシントン・バレエ団,アメリカン・バレエ・シアターなどで要職についたこともある。

フランクリン
Franklin, William Buel

[生]1823.2.27. ペンシルバニア,ヨーク
[没]1903.3.8. コネティカット,ハートフォード
アメリカの軍人。南北戦争の北軍の勇将。陸軍士官学校卒業,アメリカ=メキシコ戦争に参加。南北戦争ではブルランの戦いに参加したあとポトマック軍に配属され,対リッチモンド作戦 (1862) に准将として出陣,G.マクレラン将軍の退却を巧みに補う活躍をしたが,のちフレデリックスバーグの戦闘の不手ぎわを A.バーンサイドに非難された。 1866年陸軍を辞し,ハートフォードでコルト特許火器製造会社を経営した。

フランクリン
Franklin

アメリカ合衆国,ペンシルバニア州北西部にある町。ピッツバーグの北約 100kmに位置する。フレンチ川とアレゲニー川の合流点にあり,戦略上の要衝にあたるため,1750年以降フランスとイギリス (のちアメリカ合衆国) がしばしば争い,それぞれの砦が築かれた。地名は B.フランクリンにちなむ。 1859年石油採掘が始り,最盛期には 200万バーレルを産出し,20世紀になって石油採掘の中心が南西部に移るまでは,アメリカ合衆国における産油,製油の中心地であった。人口 7329 (1990) 。

フランクリン
Franklin, William

[生]1731
[没]1813.11.16.
イギリスのアメリカ植民地総督。 B.フランクリンの息子。 1757年父とイギリスに渡って教育を受け,63年ニュージャージー植民地総督に任命された。 65年の印紙税法をめぐってイギリス側の立場を取ったため,植民地人とも父とも仲たがいした。独立戦争中革命協議会によって逮捕され,のち 78年にイギリスに行き永住した。

フランクリン
Franklin, James

[生]1697
[没]1735
アメリカの印刷業者。 B.フランクリンの兄。 1721~26年に"New England Courant"紙,1732年"Rhode Island Gazette"紙を発刊した。

フランクリン
Franklin, Edward Curtis

[生]1862.3.1. ケンタッキー,ゲリ
[没]1937.2.13. カリフォルニア,パロアルト
アメリカの化学者。カンザス大学,スタンフォード大学教授。液体アンモニア中における各種の物質の溶解度,導電率,蒸気圧などについて測定・研究した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「フランクリン」の意味・わかりやすい解説

フランクリン

米国の政治家,著述家,科学者。初めフィラデルフィアで出版業者として成功,《ペンシルベニア・ガゼット》紙を発行。1732年―1757年《貧しきリチャードの暦》は大衆的好評を博した。また読書・討論クラブを組織,米国哲学協会,ペンシルベニア大学の前身となるフィラデルフィア・アカデミー設立を援助した。科学者としては正電気・負電気の語を導入,電気の一流体説をとなえ,たこを用い雷が電気現象であることを実証,避雷針を考案した。ストーブの改良,2重焦点眼鏡など実用的な考案も多い。また郵便制度を改革した。印紙税法撤廃に努力。独立革命の際にはアメリカ独立宣言起草委員となり,のち外交代表として渡仏し米仏同盟やパリ条約をまとめ,憲法制定会議にも出席。主著《自叙伝》(1771年)。
→関連項目菜食主義自伝シャルルフィラデルフィアペインロッキング・チェア

フランクリン

米国のソウル歌手。1960年代のソウル・ミュージックをリードした一人。ゴスペル・ソング界の権威だったC.L.フランクリン牧師を父に持つ。幼いころからゴスペルを歌いながら育ち,その影響を強く受けた。1960年に《Today I Sing The Blues》でデビュー,《I Never Loved A Man(The Way I Love You)》(1967年),《Think》(1968年)などで成功を収める。黒人感覚の溢れるすぐれた表現力を備えた歌声と,多くのヒット曲によって〈ソウルの女王〉の地位を不動のものとした。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

図書館情報学用語辞典 第5版 「フランクリン」の解説

フランクリン

1706-1790.米国ボストン生まれ.政治家,外交官,科学者,著述家.少年の頃,父のローソク業や兄の印刷業を手伝い技術を身に付け,フィラデルフィアに赴いて印刷工となる.1727年仲間と会員制の読書会ジャントー・クラブ(Junto Club)を結成し,共同で図書館を作ることを提案.1731年に50名の会員の出資を受けて,フィラデルフィア図書館会社(Library Company of Philadelphia)を設立し,英本国から歴史書や自然科学書等を共同購入した.後にこの図書館は米国の会員制図書館の母と呼ばれる.1776年米国独立宣言起草委員の1人に選出される.科学者として避雷針の発明,凧の実験などの業績がある.晩年は政治家,外交官として活躍した.

出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「フランクリン」の解説

フランクリン
Benjamin Franklin

1706~90

18世紀の代表的アメリカ人。新聞発行,科学的発明,学問振興,政治外交など多方面に活躍した。ボストンの貧しい職人の子に生まれ,フィラデルフィアで印刷出版業者として成功し,特に1732年から57年まで発行した『貧しいリチャードの暦』はユーモアをまじえた実用的処世訓の掲載によって好評を博した。彼はまた種々の科学的実験や発明を行い,アメリカ哲学協会設立,図書館や高等教育機関の創立など文化事業に貢献した。独立戦争中はフランスにおもむいて外交交渉に活躍し,憲法制定会議には最長老として出席した。『フランクリン自伝』は有名。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「フランクリン」の解説

フランクリン
Benjamin Franklin

1706〜90
アメリカの科学者・政治家
貧家に生まれたが,印刷業に成功後,多くの公共事業に貢献。稲妻と電気の同一性証明の実験を行った。アメリカ独立戦争の危機に際し,1776年大陸会議の代表となり,また独立宣言起草委員のひとりとなった。1776〜85年駐仏大使として米仏同盟の締結に成功。83年のパリ条約締結の際には全権として活躍し,憲法制定会議にも尽力。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「フランクリン」の解説

フランクリン

《Franklin》アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦。1944年1月就役。名称は同国の政治家、ベンジャミン・フランクリンの名にちなむ。小笠原諸島攻撃、レイテ沖海戦などに参加。九州沖航空戦にて大きな損傷を蒙るも沈没を免れ、終戦を迎える。1947年退役。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のフランクリンの言及

【ノースウェスト・テリトリーズ】より

…州都イェローナイフ。カナダ全土の3分の1余りを占め,三つの行政区,マッケンジーMackenzie,キーウェーティンKeewatin,フランクリンFranklinに分かれる。面積337万9683km2,人口6万5800(1995)。…

【アカデミー】より

…強大な中央集権国家フランスにおいても,たとえばボルドーのアカデミーと《法の精神》の著者モンテスキューとの結びつきはきわめて重要である。アメリカ合衆国では,植民地時代の1743年にすでにB.フランクリンがフィラデルフィアにアメリカ哲学協会American Philosophical Societyを設立し,建国後の80年にはボストンでアメリカ学芸アカデミーAmerican Academy of Arts and Sciencesが発足した。 フランス大革命に際して国民公会は〈民主化〉のたてまえから,1793年に国内のアカデミーを廃止したが,2年後にフランス学士院Institut de Franceが五つのアカデミーを擁して発足,アカデミーは事実上の復活を見た。…

【アメリカ文学】より

… 18世紀になるとニューイングランドでは教会の権威が弱まってきたが,その中で宗教の再興をはかろうとしたエドワーズは《意志の自由について》(1754)などの神学的著述によって気を吐いた。しかしこの時代を引っ張ったのは,合理主義の精神に実用性と政治性を加え,文学的にもある種の結実を見せたフランクリンであろう。その《自伝》(1771‐89執筆,1818刊)は,これまで支配的であったニューイングランドの宗教的伝統を日常的モラルに転化し,自己を例にして人間の可能性を語ったところに意義がある。…

【グラス・ハーモニカ】より

…ガラスのコップや水盤などの縁を濡れた指でこすって発音させる楽器の一種。B.フランクリンが1761年,水盤を並べてペダルで回す機構を考案し,実用化したものが代表的。透き通る甘い音色で,18世紀後半から19世紀初頭の西欧で流行した。…

【電気】より

… このころになると,摩擦起電機と蓄電器とを使ったさまざまの静電気学的実験が,初めは宮廷で,後には民間でも一種の見世物として大いに流行した。たとえば,B.フランクリンが電気学の研究に志したのも,そのような電気実験の興行を見たのがきっかけであった。また,電気的衝撃を医療に用いる試みもこのころいくつか行われている。…

【図書館】より

…18世紀初頭以降はイギリス伝道協会の手で,教区図書館のため書物が送られた。また労働者がみずからの資力で維持し,自己啓発を図る組合図書館も次々と設立されるが,なかでもB.フランクリンが主導的役割を果たしたフィラデルフィア・ライブラリー・カンパニー(1731設立)は近代公共図書館の原型として高く評価される。 17世紀の後半から18世紀の終りまでは,自然と社会に対して人間の目が激しく注がれる時代であった。…

【奴隷廃止運動】より

…イギリス,フランス両国と比べて最も大きな相違はこの点であり,奴隷制廃止はアメリカの場合いっそう困難な状況にあったといえる。 植民地時代からクエーカー教徒をはじめ宗教的な立場から奴隷制に反対する気運はあったが,すべて個人的運動にとどまり,本格的な組織ができたのは1775年で,B.フランクリン指導のもとでフィラデルフィアに結成された奴隷制反対協会が初めである。それから18世紀末までの間に,南部の一部をも含む8州に奴隷制反対協会がつくられ,94年には各代表がフィラデルフィアに集まって会議を行った。…

【ペンシルベニア大学】より

アイビー・リーグの一つ。1740年設立の慈善学校をもとに,B.フランクリンの援助を得て,植民地時代の大学としては初めての無宗派大学として創設され,55年,フィラデルフィア大学College and Academy of Philadelphiaとして勅許状を得た(現大学名は1791年以降)。以来この大学は実利的,現世的で自由主義的な教育方針のもとに,教育・研究の近代化の先駆けとなり,伝統的な古典科目に加えて,現代言語,物理学,数学,経済学などをアメリカでは早期にカリキュラムにとり入れた。…

【魔方陣】より

…図1‐cのごとく対角線に平行な汎対角線(例えば14+16+23+5+7)がすべて定数65となるものを完全方陣という。このほかに八方陣で示すように相結,対称四和,フランクリン型などの性質がある。このようにいろいろの性質があるから作り方は一様でない。…

※「フランクリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android