アメリカ合衆国第32代大統領。在職1933-45年。日本ではルーズベルトとも呼ばれる。ニューヨーク州の名門の家に生まれ,ハーバード大学を卒業。1910年ニューヨーク州上院議員を皮切りに政界に入り,ウィルソン政権の下で海軍次官補を務め,20年の選挙では民主党の副大統領候補に指名された。だがこの選挙戦で敗北しただけでなく,翌年小児麻痺にかかり闘病生活を余儀なくされた。この苦難の過程で人間的にも成長し,28年政界に復帰してニューヨーク州知事に当選,ついで州の革新的政策の実績をもとに32年大統領選挙に出馬,勝利を収めた。
33年3月政権につくや,ニューディールと総称される一連の恐慌対策をうちだすなど目覚ましい行動力と指導力を発揮し,最悪の経済危機を乗りきることに成功した。またこの間にブレーン・トラストと呼ばれる一群の学識経験者に政策の立案・企画に取り組ませたり,〈炉辺談話〉と銘うってラジオ放送を通じ国民に直接語りかける方策を手がけたり,新聞記者会見を積極的に活用するなど,政治技術の面でも種々の新機軸をうちだした。彼自身は体系だった政策論をもっていたわけではなく,恐慌対策も必要に応じて施策を講ずるといったいわゆるモザイク的性格の強いものだったが,それだけに世論の動向や民衆の要求を把握するのに機敏だった。実際にニューディール当初は政策の力点を救済と復興においていたが,社会保障制度の確立,労働保護立法の制定,所得の再分配などを求める勤労大衆の動きに対応して福祉政策を重視する方向に進み,社会改革の点でも重要な成果を収めた。こうしたニューディールの〈左旋回〉の下でその社会的支持層はより拡大し,36年の選挙では労働者や農民を中心とする広範な〈ローズベルト連合〉の支持をもとに再選された。だが政権第2期に入るや,ニューディールの主要な政策に違憲判決を下していた保守的な最高裁判所の改組を企て,保守勢力に超党派的連合と反撃のきっかけを提供する結果となり,改革的政策のいっそうの進展は困難となった。
他方,対外関係では,当時の世論の孤立主義的風潮の下に,国際紛争に巻きこまれるのを避け,中立の立場を保持する政策をとった。だが彼自身,元来はウィルソン流の国際主義者であり,30年代にまず〈善隣政策〉を通してラテン・アメリカ諸国との関係の改善,経済交流の拡大,さらに西半球の集団防衛構想の具体化に努め,またニューディール末期には経済の軍事化を背景に国防力の増強を推進した。第2次大戦が勃発するや,参戦回避のためにも連合国側を支援することが必要との論理の下に,民主主義陣営への荷担に積極的に乗り出し,そうした緊迫した状況の中で40年アメリカ史上初めて大統領に3選(ついで1944年に4選)された。翌年〈四つの自由〉演説およびイギリスのチャーチル首相との共同宣言である大西洋憲章において,反ファシズムならびに世界の民主的再建の理念を明確に示した。41年12月日本が真珠湾攻撃を行うや,世論の団結を得て大戦に参戦,以後国内の戦時動員政策のみならず民主主義陣営全体の軍事活動の面で強力な指導力を発揮した。とくにイギリスはもとよりソ連との協調を重視し,軍事援助政策を推進しながら,しばしばチャーチルとスターリンとの間の調整者としての役割を演じた。また戦時外交にあたっては,ハリー・ホプキンズのような信頼のおける補佐官を重用しつつ,カサブランカ,カイロ,テヘラン,ケベック,ヤルタといった一連の首脳会談での目覚ましい活躍にみられるように,みずから第一線に立って協議・交渉に取り組むことが多かった。こうした大国の指導者間の協力・信頼関係をもとに戦時協調体制の維持・活用を図りながら,戦後処理や国際平和機構樹立などの問題に関し成果をあげようとした。だが大戦の終結を間近にひかえ,米ソ関係が新たな局面を迎えようとする45年4月12日,脳溢血で急逝した。なお,夫人のA.E.ローズベルトも社会改革家としての活躍で知られる。
執筆者:新川 健三郎
アメリカの政治家。第26代大統領。在職1901-09年。日本ではルーズベルトとも呼ばれる。ニューヨーク州の名門に生まれ,ハーバード大学卒業後,政界に入り,共和党員としてニューヨーク州議会議員,ニューヨーク市警察総監を務めた。1897年マッキンリー大統領の下で海軍次官となり,キューバ介入問題で積極的態度をとり,98年の米西戦争中はみずから〈荒馬騎兵隊Rough Riders〉と称する義勇隊を率いた。同年ニューヨーク州知事に当選,1900年の選挙では,共和党の副大統領候補となり当選した。翌年マッキンリーが不慮の死をとげたため大統領に就任した。彼は大統領として,連邦政府の権限拡大により公共の利益を守ることを唱え,独占企業に対する反トラスト法の適用,炭坑労働争議の調停など,公益の代表者として積極的に活動する大統領の型をつくった。また鉄道規制,食品・薬品の監督,自然資源の保護のための政策を推進した。対外政策の面では,パナマ運河地帯の獲得(1903),カリブ海地域におけるアメリカの勢力の強化,日露戦争の調停(1905),モロッコ紛争の解決への尽力(1906)などがおもな業績である。
彼は強力な軍備をもって外交を行う必要があると考え,海軍の強化を進めた。1907年のアメリカ艦隊の世界一周は国民の海軍熱を盛りたてるとともに,諸外国にアメリカの力を印象づけるためであった。彼の対外政策は,パナマ運河地帯獲得の際の強引なやり方や西半球諸国に対する干渉権の主張など,帝国主義的であったが,東アジアやヨーロッパにおける強国間の勢力均衡を重視し,日露戦争やモロッコ紛争の収拾に積極的に活動したので,彼はそれらの貢献によってノーベル平和賞を受けた。また日露戦争後,サンフランシスコで日本人生徒差別事件が起こると,彼は移民排斥問題が両国の紛争に発展しないよう,日本政府に移民の自主規制を求める(1907年日米紳士協約)一方,サンフランシスコ市に日本人生徒の差別を撤回させた。
大統領を2期務めた後,彼はしばらく政治から遠ざかっていたが,後継者タフト大統領の政策にしだいに批判的になり,〈ニューナショナリズム〉の旗印のもとに政界への復帰を宣言,12年には共和党の大統領指名をタフトと争い,敗れると革新党を組織し,革新的綱領をかかげて大統領選挙に出馬したが,民主党のウィルソンに敗れた。その後再び共和党に戻り,ウィルソンの第1次大戦に対する中立政策を軟弱な政策と批判,また参戦後はウィルソンの〈14ヵ条〉の新国際秩序構想に反対し,ドイツに対する厳しい講和を主張し,国際連盟案にも批判的であった。
ローズベルトは工業化が進んだ社会の政治課題にこたえるために連邦政府の役割を拡大し,公益の擁護者としての大統領の指導力を発揮しようとした。また国際関係について強い関心をもち,世界政治の舞台で,アメリカの大統領としては初めて重要な外交上の役割を演じた。アメリカの戦略的利害について一定の認識を有し,カリブ海地域ではときには強引な方法でその利益を確保することに努めた。概して,時代の要請を察知して積極的にそれに対処した明敏な政治家といえる。
執筆者:有賀 貞
アメリカの社会改革家。T.ローズベルトの姪で,いとこにあたるF.D.ローズベルトと1905年結婚。夫を助けて政治活動を行ううちに自分自身,政治的指導者に成長した。労働者,貧困者,黒人,女性などのために社会福祉,差別撤廃を主張し,夫の大統領就任後は大統領夫人としての地位を生かし,ニューディールにおける彼らの代弁者として活躍した。夫の死後の45年国連代表に任命され,世界人権宣言起草に尽力。晩年はケネディ大統領の下で〈婦人の地位に関する委員会〉の長に任命された。
執筆者:有賀 夏紀
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1882.1.30~1945.4.12
アメリカ合衆国32代大統領(民主党,在職1933~45)。第2次大戦終結目前まで,4期12年間大統領を務めた。国内ではニューディール政策による大恐慌からの脱出を試み,対外的には第2次大戦に参戦,連合国側を勝利に導く一方で,一連の首脳会談において,国際連合を中心とする戦後世界秩序の確立に努めるなど,国内外ともに強力な指導力をもって対処した。
1858.10.27~1919.1.6
アメリカ合衆国26代大統領(共和党,在職1901~09)。カリブ海地域で帝国主義政策を推進する一方,極東地域にも関心を示し,日露戦争の講和仲介を行った。また日米紳士協約(1907~08)で日本政府に移民の自主規制を求め,同時にサンフランシスコ市に日本人生徒への差別を撤廃させた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…洪水量が多いので工事をこれから守る大がかりな締切りダムを造ったり,世界最大のコンクリート混合プラントを設けたりして,アメリカの大ダム建設の先駆けとなった。貯水池は総貯水量118億m3,長さは240kmでカナダ国境に達しており,ローズベルト湖と呼ばれ,クーリー・ダム国定レクリエーション地域に指定されている。228万kWの発電をしていたが,1967‐71年,渇水期にダム右岸を撤去して大改造し,948万kWに増強した。…
…この点でギャラップGeorge H.Gallupの功績は大きい。1935年に〈アメリカ世論調査所American Institute of Public Opinion〉を創設したギャラップは,翌36年の大統領選挙の際にわずか2000人を調査しただけでローズベルトFranklin D.Rooseveltの当選を予想し,それまで選挙予想の世界に君臨し,このときも200万余の有権者からアンケートをとってランドンAlfred M.Landonの当選を予想していたリテラリー・ダイジェスト社Literary Digestの予想を破った。ギャラップはこのとき,全体の縮図となるような構成をもった標本(サンプル)を調べれば,たとえ数は少なくても正確な予測ができるという考えに立って,性,年齢,職業,地域などの指標に関して有権者全体の分布と等しい割合になるように,2000人のサンプルを選んだのである。…
… 綿花やタバコの単一作物栽培,小作人制度,資源開発や工業化の遅れ,北部資本への依存など,南部経済のかかえる弱点を徹底的に明らかにしたのは,1930年代の大恐慌である。F.D.ローズベルト大統領は南部を〈わが国第一の経済問題〉と呼び,TVAをはじめとするニューディール諸政策を通じて南部の救済と発展に力を注いだが,その後とくに第2次大戦以来今日にいたるまでの南部経済は急激な成長をとげてきた。大戦中南部に進出した軍需産業を民用に転ずることから始まった戦後の工業化は,豊かな原料資源,低廉な土地と労働力,交通の発達,各州政府の積極的な産業振興・誘致策,連邦資金の流入などの相乗作用の結果,工業生産高で全米の27%,工業従事者数で29%(1978)を占めるまでに進展し,この割合はさらに高まりつつある。…
…アメリカ合衆国の首都ワシントンの北西約120km,メリーランド州カトクティン山脈にある大統領専用の別荘。F.D.ローズベルト大統領の静養地(シャングリ・ラ)としてつくられ,1945年には大統領の公式の別荘となり,53年,アイゼンハワー大統領が孫の名にちなんで改名した。人里を離れての首脳会見の場所としても使用されてきた。…
…体制に順応しない人物の運命を描いた《化石の森》(1935年初演,1936年A.メーヨー監督で映画化),西洋文明の破滅をとらえた《白痴の喜び》(1936年初演,1939年C.ブラウン監督で映画化),青年時代のA.リンカンを主人公にした《イリノイのエーブ・リンカン》(1938年初演,1939年J.フォード監督で映画化《若き日のリンカーン》)などを発表。第2次大戦中はF.D.ローズベルト大統領の演説の起草者ともなった。その後の劇作品には見るべきものはないが,ヒッチコック監督《レベッカ》(1940)やW.ワイラー監督の代表作となった《我等の生涯の最良の年》(1946)などの映画脚本で活躍し,後者ではアカデミー脚本賞を受賞した。…
…アメリカのF.D.ローズベルト大統領がとった対中南米政策の総称。大統領は,1930年代の政治的・経済的危機状況のなかで,アメリカの従来の武断主義的内政干渉政策が中南米諸国を離反させ,それがヨーロッパ列強の干渉と進出を招くことを恐れ,就任後その政策の転換をはかる。…
…とくに35年8月には中立法が制定され,交戦国への武器等の輸出が禁止され,それ以後も禁止事項が拡大されていった。F.ローズベルト自身は,ナチス・ドイツや日本の対外膨張をみてより積極的な施策を考えていたが,この〈孤立主義〉の世論のまえに慎重にならざるをえなかった。39年,戦争の勃発とともにアメリカはしだいにイギリス,フランス支援の姿勢をとっていく。…
… チアリーダーは19世紀末のアメリカ合衆国で生まれ,その創始者たちはエリート大学の男子学生の有志であった。このような初期のチアリーダーの典型的な人物に,後に合衆国大統領となったフランクリン.D.ローズベルトの名前が残っている。彼はハーバード大学在籍中の1903年,ブラウン大学を迎えて行われたアメリカン・フットボールの試合で応援を指揮したといわれている。…
…アメリカ合衆国において,1930年代にF.D.ローズベルト政権により実施された恐慌対策の総称。1929年10月のニューヨーク株式取引所における株価大暴落に端を発する大恐慌は,32年までにGNPを1929年水準の56%に下落させ,1300万人もの失業者を生み出し,深刻な銀行危機を引き起こすなど,アメリカ経済を根底から動揺させた。…
…1932年のアメリカ大統領選挙において,民主党候補F.D.ローズベルトがコロンビア大学教授のモーリーRaymond Moley,タグウェルRexford G.Tugwellなどの学者を政策面でのアドバイザーとして用いたことを,当時の新聞が評して使用した表現。ローズベルトの大統領就任後も,このブレーン・トラストはニューディール政策の立案・実施を援助した。…
…この点でギャラップGeorge H.Gallupの功績は大きい。1935年に〈アメリカ世論調査所American Institute of Public Opinion〉を創設したギャラップは,翌36年の大統領選挙の際にわずか2000人を調査しただけでローズベルトFranklin D.Rooseveltの当選を予想し,それまで選挙予想の世界に君臨し,このときも200万余の有権者からアンケートをとってランドンAlfred M.Landonの当選を予想していたリテラリー・ダイジェスト社Literary Digestの予想を破った。ギャラップはこのとき,全体の縮図となるような構成をもった標本(サンプル)を調べれば,たとえ数は少なくても正確な予測ができるという考えに立って,性,年齢,職業,地域などの指標に関して有権者全体の分布と等しい割合になるように,2000人のサンプルを選んだのである。…
…アメリカ合衆国のF.D.ローズベルト大統領が1930年代にニューディール政策の実施にあたり,世論の支持を得るために全国的なラジオ放送網を通して行った政策説明。大統領就任8日後の1933年3月12日に初めて行われた。…
…同一名称で過去3度結成された。第1は1912年,共和党革新派のセオドア・ローズベルトを中心に,当時の革新運動の思潮を反映して企業規制や社会福祉制度の確立をめざした。ローズベルトは元大統領の名声をもとに,現職大統領で共和党保守のタフトと互角に争ったが,同じ革新主義を標榜する民主党のウィルソンに敗れた。…
…(3)アメリカは韓国に対する日本の優越的支配を承認する。この秘密覚書はその後T.ローズベルト大統領によって追認された。本覚書は,第2回日英同盟,日露講和条約とともに,日本の韓国保護国化,併合への重要な布石としての意味をもった。…
…州政治でも,ウィスコンシンのR.M.ラ・フォレット,アイオワのカミンズAlbert B.Cummins,カリフォルニアのジョンソンHiram W.Johnsonらが革新知事として特筆されるが,なかでもラ・フォレットは,所得税制,鉄道統制,公務員制度改革,直接予備選挙制を導入し,ウィスコンシン州は〈民主主義の実験室〉,彼の改革案は〈ウィスコンシン案〉と呼ばれて他州の手本になった。 連邦政治における革新主義の最初の担い手はセオドア・ローズベルト大統領(在職1901‐09)である。彼はシャーマン反トラスト法を武器として,北部証券会社をはじめ多くの独占企業の告発を行い,〈トラスト征伐者〉のあだ名を奉られた。…
…翌05年3月の奉天の会戦は,日露両軍ともに最大限の兵力を結集して戦われ,日本側は軍事上,財政上からこの戦闘を限度として講和による戦争終結を期待した。ロシアも5月の日本海海戦による決定的な敗北と国内における革命運動の激化によって講和を必要とするにいたり,アメリカ大統領T.ローズベルトの斡旋で講和会議が開かれ,9月講和条約の締結をみた。 講和の内容が,領土割譲は樺太南半だけであり,償金はまったくないことに不満を抱く対外硬派は講和反対を唱えた。…
※「ローズベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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