翻訳|New Deal
大恐慌の経済危機の下で、1930年代にアメリカ合衆国のF・D・ルーズベルト政権により実施された政策の総称。ニューディールは「新規巻き直し」といった意味で、ルーズベルトが32年の大統領選挙運動の際に国民の支持を得るために使ったことばだが、当初明確な体系だった政策構想があったわけではなかった。しかしアメリカの資本主義経済を救済するために、経済のほぼすべての部門にわたって積極的に施策が講じられ、その過程で行政府への権力の集中、とくに連邦政府の経済的機能の拡大が著しい進展をみせ、それに伴ってアメリカの経済構造も、国家独占資本主義、修正資本主義、混合経済といった諸概念で把握されるような重要な変化をきたした。
[新川健三郎]
1933年より30年代末に至るその政策過程は、次の三つの時期に大きく区分することができる。
(1)第一期(1933~34) 失業者が1300万人以上に達し、銀行も閉鎖に追い込まれるといった危機的状況に陥っていた経済の救済、復興に政策の力点が置かれた。国内再建優先の立場にたって、外国との金取引の停止、金本位制の廃止、ロンドン世界経済会議での暫定的通貨安定協定に対する反対といった一連の措置が講じられた。一方、銀行休日宣言と復興金融公社の融資活動により銀行危機が克服され、失業者に対する救済活動、TVAの総合開発事業、大恐慌勃発(ぼっぱつ)の一因となった証券取引所や銀行の制度面の欠陥の是正、平衡価格の概念を導入しつつ生産削減計画に着手した農業調整法など、多部門にわたって精力的に政策が打ち出された。とくに重要で第一期の支柱となったのは全国産業復興法(NIRA(ニラ))で、資本側の要求に応じて各産業部門の「カルテル化」を認めて反トラスト法の適用から除外する一方、組織労働者側の要求を入れて団結権と団体交渉権の承認および最低労働条件の規定を設け、さらに広範な権限を有する全国復興局(NRA)を設立、企業活動を国家統制下に置いた。また、公共事業局が設けられ、「誘い水政策」の下に大規模な公共事業で景気の回復が図られた。
(2)第二期(1935~37) 以上の政策により景気は上向いたが、社会保障制度の欠如に対する大衆の不満の増大、労働条項による労働争議の増大、さらには保守的な最高裁判所による全国産業復興法の違憲判決といった事態に直面して、ルーズベルト政権はニューディールの「左傾化」といわれる改革をより重視した政策姿勢を示した。社会保障制度の樹立、「富裕税法」と宣伝された税制改革、福祉的要素を取り入れた雇用促進局の公共事業、農村の貧困問題に取り組む再入植局の設置など福祉政策が手がけられ、また画期的な労働保護立法であるワグナー法の制定をみた。さらにNRA的経済統制をやめて、通貨、金融、財政政策の操作により景気の変動に対処する「管理経済」の実現が図られ、他方公益事業持株会社法にみられるように、独占体に対する規制が強化された。これらにより、ルーズベルトの進歩派指導者としての地歩はいっそう強固になり、1936年の大統領選挙では急速に勢力を増大しつつある組織労働者を中心とした「ルーズベルト連合」の支持を得て再選された。
(3)第三期(1937~39) ルーズベルトの最高裁判所改組計画を契機に、保守派の結束、巻き返し傾向が強まり、改革政策の成果は農場保障局の設置や公正労働基準法の制定などにとどまった。しかも1937年夏に急激な景気後退にみまわれ、ルーズベルトは独占体を調査する委員会を設置する一方、悪化する国際情勢の下に国防力の増強を重視し、軍事支出を中心とした財政支出の大幅な増大により事態の打開を図った。こうした戦時体制への移行の過程で、ニューディール本来の課題である恐慌の克服も達成されるに至った。
[新川健三郎]
ニューディールは、大恐慌の危機を社会改革あるいは「民主化」の促進によって乗り切ろうとした点に大きな意義があるといえる。それはとくに全体主義体制の強化と対外的侵略に向かったファシズム諸国と対比した場合、際だっており、当時ルーズベルトは国際的にも進歩的指導者とみなされ、ニューディールは各地の民主勢力から改革政策のモデルとして注目されていた。しかもこれらの政策の多くは、単に一時的な景気対策にとどまることなく、アメリカ社会に定着して、その後の改革の基盤をなすに至った。また、この間に労働組合の目覚ましい発展をはじめ、勤労大衆層の政治的発言力が増大したことにより、以後リベラル派が長期にわたって多数派勢力たる地歩を占めうる社会的基盤ができあがった。だが、他方で戦時体制への移行に至るまで景気の回復を十分に達成できなかったことは、大戦期以後も引き続き「経済の軍事化」の動きを根強いものにさせ、また当初国際協力に否定的態度をとったことも世界経済の「ブロック化」を促進した点で問題があった。さらに、人種差別制度廃止の課題に取り組まなかったため、このアメリカ社会の民主化にとってもっとも重大なことが懸案として残されることになった。これらの両面にニューディールの成果と限界の一端をみいだすことができよう。
[新川健三郎]
『新川健三郎著『ニューディール』(1973・近藤出版社)』▽『アメリカ経済研究会編『ニューディールの経済政策』(1965・慶応通信)』▽『W・ルクテンバーグ著、陸井三郎訳『ローズヴェルト』(1968・紀伊國屋書店)』▽『A・M・シュレジンガー著、中屋健一監訳『ローズヴェルトの時代』全三巻(1962~63・論争社/1966・ぺりかん社)』
アメリカ合衆国において,1930年代にF.D.ローズベルト政権により実施された恐慌対策の総称。1929年10月のニューヨーク株式取引所における株価大暴落に端を発する大恐慌は,32年までにGNPを1929年水準の56%に下落させ,1300万人もの失業者を生み出し,深刻な銀行危機を引き起こすなど,アメリカ経済を根底から動揺させた。こうした状況の下で33年3月に政権についたローズベルトは,国内再建を最優先課題として政策活動に取り組み,30年代末に戦時体制への移行が始まるまで,経済の大部分の部門にわたり積極的に恐慌対策を講じた。これらの政策は,資本主義体制の救済を意図したものであるが,それを達成するために多くのきわめて大胆で斬新な方策が導入され,その過程でアメリカ経済の構造には重要な変化が生じるにいたった。とくに政府の経済的機能が著しく拡大・強化され,国家権力による規制および政府資金の活用が資本主義経済体制の維持にとり不可欠の要素となったが,こうした事態は国家独占資本主義,修正資本主義,混合経済体制といった諸概念で規定されている。ローズベルト自身には当初から明確な体系だった政策論はなく,むしろ必要に応じて施策を行うといった面が強かったが,それだけに世論の動向には機敏に対応し,また急進的といえる改革政策が手がけられたこともあった。30年代末にいたる一連の政策によっても景気を回復させることができず,その意味で恐慌対策としては失敗に終わったが,これ以後のアメリカ経済社会が〈ニューディール体制〉と呼ばれることがあるように,社会改革の多くは定着してきわめて大きな意義を有しており,またとくに当時のファシズム諸国の非民主的な動向と対比して高く評価されている。
ニューディール政策はおよそ7年という長期にわたったが,その過程は三つの時期に区分することができる。(1)第1期(1933-34) 対外経済関係を政府の管理下におきながら,とくに救済と復興を重視する施策が講じられた。まず33年3月海外との金の取引を統制下においたのについで翌月金本位制を停止し,またロンドンで開催された世界経済会議に対しては暫定的な通貨安定協定を拒否して流産させ,世界経済の〈ブロック化〉の傾向を促す役割を演じた。他方,この間に内政面では,銀行休日宣言によって銀行危機からの脱却を図るとともに,いわゆる〈百日議会〉と呼ばれた特別会期で行政府主導の下に精力的に立法活動がなされ,失業者救済策,農民に対する融資活動と生産統制による農産物の価格支持,地域総合開発を指向したTVAの設立,金融・証券制度の欠陥の是正,復興金融公社の融資による銀行の立直し,そして初期ニューディールの支柱ともいうべき総合的産業政策である全国産業復興法(NIRA(ニラ))の制定等の措置が講じられた。さらに国内政策が一段落するや,〈善隣政策〉を通して中南米への経済進出が積極的に図られた。(2)第2期(1935-37) 福祉政策や労働保護立法を求める勤労大衆の要求が高まるや,〈左傾化〉して社会改革をいっそう重視するにいたり,社会保障制度の樹立,〈富裕税法〉と銘うった税制改革,公共事業の拡充,画期的な労働保護立法たるワグナー法の制定等の諸策を手がけるとともに,他方で35年銀行法や公益事業持株会社法により実業界に対する政府の規制力を著しく強めた。これによりローズベルトの進歩的指導者としての名声は確立し,36年には彼の再選を目ざす進歩派勢力の大連合が形成され,またとくに労働組合が目覚ましい勢力の増大を示した。(3)第3期(1937-39) 最高裁改組問題を機に保守派の巻返しが始まっただけでなく,37年夏には再び急激な景気後退に見舞われた。こうした状況の下で,国防力増強の必要を背景に軍事支出を軸とする大規模な財政支出が景気対策の中心となり,経済の〈軍事化〉傾向を強め,戦時体制に移行していった。
執筆者:新川 健三郎
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アメリカのF.D.ローズヴェルト政権により1933年より実施された恐慌対策の総称。大恐慌の経済危機に対し,連邦政府の機能の拡大,強化をとおして資本主義体制の救済,安定を図る。自国の経済再建を優先するナショナリズムの性格が強い一方,労働者の権利の承認や社会福祉など民主化重視の傾向も顕著で,左翼勢力も活発に活動した。およそ3つの時期に分けることができる。第1期では困窮者や銀行に対する救済活動に加えて,TVAその他の公共事業,全国産業復興法(NIRA)や農業調整法(AAA)による景気回復策が中心となり,35年に始まる第2期ではワグナー法の労働保護立法や社会保障制度,連邦準備制度の改組など,改革に大きな比重が置かれた。36年選挙での再選後また景気後退に直面したのに対し,第3期では積極的な財政支出による景気調整が図られ,国際情勢悪化に伴う国防力増強の必要に対応しつつ戦時経済体制に向かった。この過程で出現した「福祉国家」は戦後も持続し,「ニューディール体制」として定着した。
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… 綿花やタバコの単一作物栽培,小作人制度,資源開発や工業化の遅れ,北部資本への依存など,南部経済のかかえる弱点を徹底的に明らかにしたのは,1930年代の大恐慌である。F.D.ローズベルト大統領は南部を〈わが国第一の経済問題〉と呼び,TVAをはじめとするニューディール諸政策を通じて南部の救済と発展に力を注いだが,その後とくに第2次大戦以来今日にいたるまでの南部経済は急激な成長をとげてきた。大戦中南部に進出した軍需産業を民用に転ずることから始まった戦後の工業化は,豊かな原料資源,低廉な土地と労働力,交通の発達,各州政府の積極的な産業振興・誘致策,連邦資金の流入などの相乗作用の結果,工業生産高で全米の27%,工業従事者数で29%(1978)を占めるまでに進展し,この割合はさらに高まりつつある。…
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【社会保障の歴史――二つの系譜】
社会保障は歴史的に形成され,生成発展してきた公的制度であり,国によって展開の過程がそれぞれ異なっているばかりでなく,一つの国においても時代とともにその形態や機能が変化している。社会保障という用語がはじめて公的に用いられたのは,ニューディール政策の一環としてアメリカで成立した社会保障法Social Security Act(1935)においてであり,ニュージーランドの社会保障法(1938)がこれに次いでいる。しかし,社会保障が生存権にもとづく生活保障の包括的な制度として具体化されたのは第2次大戦後のことであるが,このような制度の展開に決定的な影響を与えたのは1942年のベバリッジ報告である。…
…Tennessee Valley Authorityの略称。テネシー川流域開発公社と訳されるアメリカの公営企業体で,1933年5月,ニューディール政策の一環として設立され,今日なお存続している。その発端は,第1次大戦中に作られたのち放置された施設やダムの公的管理運営をめざすG.ノリスらの運動であった。…
…ドイツやイタリアではファシズムが権力を掌握し,労働運動を抑圧・破砕した。これと対照的にアメリカではニューディール政策がとられ,ワグナー法の制定(1935)にみられるように国家が労働組合の組織化を促進し,購買力の増大を図る一方,財政・金融政策を通じて不況から脱出することが試みられた。こうしてアメリカでは組織化が飛躍的に進展するとともに,職業別組合の強いAFL(アメリカ労働総同盟)からCIO(産業別組合会議)が分裂し,AFLと並ぶ勢力となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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