イタリアの彫刻家。南イタリアのアプリア出身と推定されるが、1260年にピサ洗礼堂に説教壇を制作する以前の経歴はほとんど不明である。この説教壇の浮彫りは洗礼堂の近くにあるカンポサント(墓室)に残る古代の石棺の浮彫りに手法が類似しているため、ニコラが新しいキリスト教美術の創造に、後期ローマ彫刻の写実的表現を活用したものと考えられている。1265~68年には、弟子のアルノルフォ・ディ・カンビオや息子ジョバンニ・ピサーノの協力を得てシエナ大聖堂の説教壇を制作し、さらに78年にはペルージアの大聖堂広場に大噴水盤を完成した。ボローニャのサン・ドメニコ聖堂にある聖ドミニクスの墓碑(1265~67)もニコラの工房の制作とみなされている。
[濱谷勝也]
イタリアの彫刻家、建築家。正式名はAndrea da Pontederaで、A・ピサーノは通称。ピサ近郊のポンテデラに生まれ、オルビエートに没。フィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂第一門扉の制作者として有名だが、この仕事に着手する1330年以前の経歴はほとんど不明。36年完成のこの青銅門扉は、28の枠に区画され、上部の20個には「洗礼者ヨハネ伝」、下部の8個には「美徳」を表す寓意(ぐうい)像が描かれている。これらの浮彫りに示された合理的な空間表現と力強い造形性は、彼が師事した画家ジョットの手法に連なるものであり、洗練された表面処理やリズミカルな輪郭線には、フランス・ゴシック彫刻の影響がうかがわれる。40年にフィレンツェ大聖堂の主任建築家に任命され、カンパニーレ(鐘塔)の基底部の装飾に主導的役割を果たしたのち、ピサに赴きサンタ・マリア・デッラ・スピーナ聖堂その他に制作を残した。また彼のオルビエートにおける制作活動(1347~48)が、同市大聖堂付属美術館に現存する息子ニーノとの共作になる『聖母子像』によって裏づけられる。
[濱谷勝也]
イタリアの彫刻家、建築家。ニコラ・ピサーノの息子で、シエナ大聖堂の説教壇(1265~68)やペルージアの大噴水盤(1277~78)の制作に際し、弟子たちとともに父に協力。その後ふたたびシエナに赴き、1285~96年に大聖堂主任建築家の資格でファサードの設計(下部半分)と、それを飾る一連の彫像制作に従事した。これにはフランス・ゴシック彫刻の影響が指摘されうるため、確証はないが、彼はフランスを訪れたことがあるに相違ないという主張もなされている。1301年完成の代表作、ピストイアのサン・タンドレア聖堂の説教壇にみる劇的な物語表現は、すこし遅れて登場する大画家ジョットにより絵画の領域に敷衍(ふえん)されていく。そして、10年に完成された彼の最後の大作、ピサ大聖堂の説教壇では、人像柱に円熟した彼の技法が示されるのに対し、浮彫りの部分はほとんど弟子たちの手になるものとされている。
[濱谷勝也]
イタリアの彫刻家,建築家。ニコラ・ピサーノおよびジョバンニ・ピサーノ父子とは家系的にも流派的にも無関係だが,ピサ近郊のポンテデーラPontedera出身であるため,この名で呼ばれる。おそらくピサで修業のあと1330年にフィレンツェの洗礼堂の青銅扉の注文を受け,36年バプテスマのヨハネ伝と諸徳擬人像の計28場面の浮彫パネルからなる一対の扉を完成。これらはフランス・ゴシックに起源をもつ四つ葉のクローバー型の枠をもち,またジョットの影響の明らかな,簡素な背景と単純化された形体をもつ少数の人物による物語表現を見せる。37年のジョット没後,その跡を継いでフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼の大理石浮彫を制作。晩年はオルビエト大聖堂の建設に携わり,没後は息子ニーノNino Pisano(1315ころ-68ころ)が引き継いだ。
執筆者:鈴木 杜幾子
イタリアの彫刻家。記録からピサよりも南イタリアのプーリア地方の出身とされ,また修業も同地方で積んだと思われる。初期の作ピサ洗礼堂の説教壇(1260)では,ピサのカンポサントやローマにあった古代彫刻の研究成果を踏まえ,モニュメンタルで力強く簡素な手法を達成し,彫刻におけるジョット的役割を果たしている。シエナ大聖堂の説教壇(1269),さらには晩年の作ペルージアの大噴水(1278)になると,構成は複雑となり,洗練度を高めて北方ゴシックへの接近を見せている。
執筆者:生田 圓
イタリアの彫刻家,建築家。ニコラ・ピサーノの子。青年期にはペルージアの大噴水(1278)その他を父と共作。人体をその有機的構造を明確にしつつ量塊として力強く表現する父の古典主義的作風に対し,衣褶の流れや人物の感情表現,彫刻面における光と影の交錯などを強調するゴシック的な造形感覚への移行を示す。代表作はピストイアのサンタンドレア教会説教壇(1301)およびピサ大聖堂説教壇(1302-10)。
執筆者:鈴木 杜幾子
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…ラテン十字形平面をもつ3廊式教会堂であるが,八角形の大交差部を囲む方形祭室によって内陣と翼廊を同形とした集中的構成はゴシック教会堂として前例のない斬新さを示す。1331年以降,工費を負担しえなくなった司教にかわって同市の羊毛組合が工事を主導し,14世紀を通じてジョット,アンドレア・ピサーノ,フランチェスコ・タレンティ,ジョバンニ・ラポ・ギーニらが建築主任として市の威信と栄光をかけたこの大建設事業を進めた。ジョットの設計,監督によって34年に起工され,その没後A.ピサーノとF.タレンティによって完成された鐘楼(いわゆる〈ジョットの鐘楼〉。…
…イタリアの画家,メダル作家。本名アントニオ・ピサーノAntonio Pisano。1395年以前にピサに生まれ,幼いときに母の生地ベローナに移り,おそらく同地でステファノ・ダ・ゼビオStefano da Zevio(1374ころ‐?)について修業したものと思われるが,初期の作品にはアルティキエロAltichieroの影響も看取される。…
…この新興イタリア美術は,これがただちに15世紀のルネサンスに連なるところから,ゴシック美術を狭義に解してそのうちに入れない傾向があるが,他の西ヨーロッパの同時代美術と相互に影響関係があるので,この点からとりあげることとする。イタリア美術復興のさきがけをする彫刻家ニコラ・ピサーノとその子ジョバンニの芸術には,古代彫刻の影響とともに,ゴシック彫刻とその新気運の影響があった。ジョバンニの情熱には新興イタリア都市の誇らかな人間的自覚があり,これが開花するのがジョットの芸術であった。…
…内部の柱・壁は色大理石で水平の縞模様をなし,床も多色大理石のモザイクで覆われる。ジョバンニ・ピサーノ設計の西正面(下半分のみ原案どおり)は,飾り破風や小尖塔を伴ったばら窓と3扉口によりフランス式構成を示すが,彫刻やモザイク画の豊かな装飾は全体としてなおイタリア的な平板性にとどまっている。南袖廊と側廊に接して正方形平面の鐘塔が立ち,やはり色大理石の縞模様が外壁面を飾る。…
…記録によって確認される彼の現存作品は,ピサ大聖堂内陣モザイクのうちの《ヨハネ》(1301‐02)1点しかなく,その他の彼の作品とされるものは,すべて様式上からの帰属による。2点の《キリスト磔刑》(アレッツォ,フィレンツェ)は,図像的にジュンタ・ピサーノGiunta Pisano(13世紀前半に活躍)の確立した〈苦悩のキリスト〉を踏襲しているが,刻線的な強い輪郭線,金のハイライトを施した繊細な衣のひだの描写,彫刻的な肉付けは,コッポ・ディ・マルコバルドCoppo di Marcovaldoの影響を示している。また《玉座の聖母子と四天使およびフランチェスコ》の壁画や,《サンタ・トリニタの聖母》では,聖像に人間的生命を注入し,三次元的空間感覚をも見せている。…
…カンボジアの首都。人口92万(1994)。メコン河口から約300km遡航した自然堤防上の河岸に開けた都市で,港は2500トンまでの船が横づけできる。プノンペンとはカンボジア語で〈ペンの丘〉を意味する。《王朝年代記》によれば,洪水のときに上流から仏像4体が流れつき,敬虔なペンという名の夫人がこの仏像を小さな丘の東斜面に安置したという。これが〈ペン夫人の丘の寺院〉説話で,プノンペン発祥伝説のもととなった。…
…この新興イタリア美術は,これがただちに15世紀のルネサンスに連なるところから,ゴシック美術を狭義に解してそのうちに入れない傾向があるが,他の西ヨーロッパの同時代美術と相互に影響関係があるので,この点からとりあげることとする。イタリア美術復興のさきがけをする彫刻家ニコラ・ピサーノとその子ジョバンニの芸術には,古代彫刻の影響とともに,ゴシック彫刻とその新気運の影響があった。ジョバンニの情熱には新興イタリア都市の誇らかな人間的自覚があり,これが開花するのがジョットの芸術であった。…
※「ピサーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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