イタリア中部,トスカナ州にある中世・ルネサンス期に栄えた都市。同名県の県都。標高322mの丘陵上にあり,周囲の農業地帯の中心で,観光都市となっている。人口5万7745(1990)。古代ローマの植民市であったシエナは,ランゴバルド,フランク時代に伯領を形成し,11世紀に司教の統治下に都市部でコムーネの形態が現れ,12世紀半ばに完全なコムーネとなった。12世紀末,皇帝派(ギベリン)が市政を掌握し,教皇派(ゲルフ)のフィレンツェと衝突した。交通の要所にあり,豊かな農業地帯に支えられて,13世紀のシエナ商人は北ヨーロッパと交易し,銀行業を営んで教皇庁財政の代理人となった。教皇が皇帝派の財産没収を命じたため,シエナ商人は打撃を受け,1269年シエナには教皇派政権が樹立された。そのころからフィレンツェと友好関係を結んで学問・芸術の最盛期を迎え,人口も約7万人を数えた。1348年にはペストがシエナを襲い,人口の約3分の2が失われ,さらに豪族と市民の間の紛争がつづいた。15世紀に入るとシエナはフィレンツェと同盟して,ナポリ軍を退却させ,かろうじて独立を守った。世紀末にイタリア戦争が始まり,1555年フランス軍の占領するシエナは,スペイン軍に包囲され,激しい抵抗の末に陥落したとき,人口は8000人に減少していた。1559年メディチ家の領土となり,トスカナ大公国に編入された。
→シエナ大聖堂 →シエナ派
執筆者:町田 亘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア中部、トスカナ州シエナ県の県都。人口4万8844(2001国勢調査速報値)。カッシア街道沿いの標高322メートルの丘上に位置する古都で、貝の形をした独創的なカンポ広場、現在市庁舎となっているプブリコ宮殿(パラッツォ・プブリコ)、大聖堂などがあり、とりわけ12~14世紀の繁栄ぶりを今日に伝えている。しかし幹線鉄道から離れ、伝統的な折半小作制地帯に位置したため、近代化の過程では大きく遅れをとった。ぶどう酒、小麦粉、菓子などが生産されるが、市の経済を基本的に支えているのは、商業、観光業、大学と、この地を拠点とするシエナ牧畜銀行の活動である。年2回、パリオとよばれる伝統的な競馬が催される。なお、1995年にシエナの歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[堺 憲一]
帝政ローマ時代に発達し、12世紀前半に自由都市となった。以来、大商人、銀行家が輩出し、富を蓄積するが、隣国フィレンツェとの宿命的確執が始まる。13世紀なかばより、大商人の少数独裁体制が倒れた1355年までが最盛期であり、大聖堂、市庁舎などが建設され、シモーネ・マルティーニなどの芸術家が活躍した。しかし以後は政治的に不安定で、1554年スペインの支配下に入り、59年メディチ家に譲渡されてトスカナ大公国に併合された。
[在里寛司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
古代エトルリア人(エトルスキ)およびローマ人の集落を中核として,12世紀にコムーネとなったトスカーナ地方の中世都市。当初は司教が世俗の支配層と協力し,行政官らに補佐されて都市を代表した。やがてコンタード(周辺農村域)の領主たちが勢力を伸ばすとともに,ボニ・ホミネス(良き衆)と呼ばれる地区代表が係争を解決するようになる。フィレンツェと覇権を争って衝突を繰り返しながらも,13世紀に入ると農村からの移民が増大し,商業,銀行業とともに各種手工業が栄え,ポポロ(平民身分)が勢力を伸ばした。1287年にはポポロを代表する「九人執政官体制」(~1355年)が成立し,貴族(騎士階級)を政権中枢から排して,平和と繁栄を実現。14世紀後半から衰退が始まり,1557年トスカーナ大公国に併合される。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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