イタリア,フィレンツェの大聖堂。その巨大な円蓋は同市とそのルネサンス文化のシンボルとされる。聖堂の名(命名1412年)は〈花の聖母〉を意味し,中世の市名フィオレンツァ(花の町)に由来する。1296年,アルノルフォ・ディ・カンビオの計画にもとづき,サンタ・レパラータ旧大聖堂を取り壊して起工された。ラテン十字形平面をもつ3廊式教会堂であるが,八角形の大交差部を囲む方形祭室によって内陣と翼廊を同形とした集中的構成はゴシック教会堂として前例のない斬新さを示す。1331年以降,工費を負担しえなくなった司教にかわって同市の羊毛組合が工事を主導し,14世紀を通じてジョット,アンドレア・ピサーノ,フランチェスコ・タレンティ,ジョバンニ・ラポ・ギーニらが建築主任として市の威信と栄光をかけたこの大建設事業を進めた。ジョットの設計,監督によって34年に起工され,その没後A.ピサーノとF.タレンティによって完成された鐘楼(いわゆる〈ジョットの鐘楼〉。高さ84.7m)が,窓割りが示す伝統的意匠と,上層にむかって垂直性を強調しつつより重厚,華美な装飾を用いる独創的手法とを,大聖堂と共通する色大理石の外装のなかで巧みに調和させた傑作である。57年カンビオの旧案にかえてタレンティがより大規模な設計案を定め,67年には大聖堂建設委員会によって中央交差部の厳密な計画が決定された。現大聖堂と円蓋の寸法はこの規定にもとづいている。地上53.8mからたちあがる内径45.2mの交差部大円蓋の架設は,それを覆うに足る作業足場と仮枠の建設が不可能であったため最大の難工事とされたが,競技設計の末,ブルネレスキによって施工中にも仮枠なしに自立しうる構造と架構法が考案され,その指揮下に1420年から14年の歳月をかけて工事が行われた。円蓋外側基部の装飾歩廊は彼の弟子による後補であるが,市民の不評をかってその工事は中止された。円蓋の頂塔も競技設計の末ブルネレスキ案が選ばれ,その死(1446)の1ヵ月前に着工,ミケロッツォとベルナルド・ロッセリーノを工事主任として1471年に完成した。ファサードはタレンティによって建設されたが未完のまま1587年に取り壊され,現ファサードが補われたのは19世紀後半である。頂塔を含む大聖堂の全高は115mに達し,周囲の家並みをはるかに超えてそびえるその雄大かつ明快な量塊は市の景観にとって欠くことのできない造形美をつくり出している。堂内にはウッチェロ,アンドレア・デル・カスターニョのフレスコ画,ギベルティのブロンズ製聖棺,ルカ・デラ・ロッビアのテラコッタ・レリーフ,ミケランジェロの彫像《ピエタ》をはじめとする多くの芸術作品が残り,大聖堂向い側の付属美術館にはカンビオ作のファサード彫刻群(部分),ロッビアおよびドナテロの聖歌壇,ブルネレスキ自作の頂塔木製模型等が保存される。
執筆者:日高 健一郎
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フィレンツェの司教座聖堂。名称に含まれるフィオーレ(花)は同市のシンボル百合(ゆり)にちなむもの。サンタ・レパラータとよばれた旧大聖堂とほぼ同じ位置に、1296年アルノルフォ・ディ・カンビオの設計をもとに起工された。1302年の彼の死去に伴い以後工事は停滞するが、31年以降、毛織物商組合が造営管理にあたり、施工はふたたび進展。1334年に工事監督者に指名されたジョットは、おもにカンパニーレ(鐘塔)の設計と建立に没頭するが、基礎工事を終えた段階で37年に世を去った。以後、工事監督者はアンドレア・ピサーノ、フランチェスコ・タレンティ、さらにラーポ・ギーニと相次いで交代し、その間にアルノルフォの設計は大幅に修正された。サンタ・マリア・デル・フィオーレ(百合花の聖母マリア)の新名称が採択されたのは1412年であるが、最大の難工事であるクーポラ(円蓋(えんがい))の設計、架構を委託されたブルネレスキは、1420~34年にこれを完成した。36年3月26日(当時のフィレンツェ暦年による元日)に行われた献堂式には、教皇エウゲニウス4世が臨席している。未完成のまま残されていたファサード(正面)は1587年に取り壊され、新規の設計が種々提案されたが、いずれも採用されるには至らず、現在の正面がエミリオ・デ・ファブリスの設計で完成されるのは1871~87年のことである。
基本的にはゴシック様式であるが、とくにクーポラにみる簡素、明快な造形性はルネサンスの到来を予告する。堂内のプランは三廊式で、支柱を少なくしてアプスを三方に張り出し、広く合理的な空間構成が求められている。フィレンツェ建築史の縮図ともみなしうるこの聖堂は、内外部ともルネサンス美術の傑作で装われている。北側西寄りの壁面にあけられた通称「マンドゥラ門」にはナンニ・ディ・バンコの浮彫り『聖母被昇天』とドナテッロの最初期の彫像『少年予言者像』が、堂内の北側壁面にはウッチェロとカスターニョが描いた傭兵(ようへい)隊長ジョン・ホークウッドとニッコロ・タレンティーノの騎馬肖像画がみられる。新旧両聖器室の入口の上には、ルカ・デッラ・ロッビアの手になる彩色テラコッタ『キリスト昇天』と『復活』が残されており、北側アプスの第一礼拝堂にはミケランジェロ晩年の『ピエタ』が安置されている。
11~12世紀に建立されたロマネスク様式による八角形プランの洗礼堂は、ギベルティの代表作である北側と東側の青銅門扉がよく知られている。ジョットが起工した鐘塔は、アンドレア・ピサーノやドナテッロらの大理石彫刻で装われていたが、これらはいずれも大聖堂付属美術館に収蔵され、現在ここにみるものはいずれもコピー(模作)である。
[濱谷勝也]
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…代表的彫刻作品は,オルビエトのサン・ドメニコ聖堂内の枢機卿デ・ブライエの墓所(1282ころ),およびローマのサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ聖堂内の天蓋付き祭壇(1285)である。教会堂を飾る彫像と装飾の制作を通じて晩年には建築の設計に親しみ,招請されて移り住んだフィレンツェで,サンタ・クローチェ聖堂,サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の設計と工事を行った。ゴシック聖堂の垂直性を水平方向の広がりによって調和的に抑制した構成は,彫刻作品とも通じる特色である。…
…構図は古典的均衡を得,色彩は明るい光の下に微妙な諧調を作り,また調和に対する感覚が画面の隅々にまで配慮され,聖人たちのエピソードが穏やかに告げられている。晩年ナポリ王ロベール・ダンジューに招かれて遇され,34年にはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂造堂主任建築家に選ばれている。〈バロンチェリの祭壇画〉をはじめ数点の祭壇画がこの期の彼の作に帰されているが,弟子や工房の手が相当に加わっている。…
…教会堂建築においてドームが帯びた天空の象徴としての意義は大きく,とくに東方教会では全宇宙の統治者キリストの座所の象徴性が重視され,燦然と輝くモザイク装飾とドームを中心とした教会堂の集中的構成によって,それが視覚化された。ブルネレスキによるフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム(15世紀,最大内径45m)は八角形のドラム(鼓胴部)に支えられる二重殻構造をとり,大小24本のリブの支持力とそれらを連結する水平アーチのアーチ作用を利用して仮枠を用いることなく建設された。ローマのサン・ピエトロ大聖堂のドーム(16世紀,設計ミケランジェロ,建設ジャコモ・デラ・ポルタ)もリブ式二重殻構造をとる。…
…初期ルネサンスを代表するイタリアの建築家。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂中央ドームの建設者。公証人の息子としてフィレンツェに生まれ,絹織物業組合登録の金細工師として修業したのち彫刻家となる。…
※「サンタマリアデルフィオーレ大聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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