ピュロス(英語表記)Pylos

改訂新版 世界大百科事典 「ピュロス」の意味・わかりやすい解説

ピュロス
Pylos

ミュケナイ時代宮殿址。ギリシア伝説のトロイア戦争物語のなかで活躍する老いた知将ネストルの宮殿は長く探索されていたが,1939年にようやく発掘確認された。それはペロポネソス半島メッセニア西海岸にある肥沃な平野をひかえ,ナバリノ湾なる良港に近い広さ120m×75mくらいの低い丘上にあった。厳重な城壁は十分には定かでないが,宮殿は丘の西半部を占めていた。遺跡は2~3の総合建物からなり,中央のものが主体となっている。他のミュケナイ時代の城塞のように楼門から中庭に入るが,楼門側面にある一室から多数の線文字B粘土板が発見された。これがピュロス文書である。中庭に面して前室をもつ大メガロンの主室は11.20m×12.90mで,やはり大きな炉をそなえる。なおこの中央群から多くのみごとな壁画が発見され,また〈王の広間〉,酒倉などがつらなる。なお少し離れて酒倉と工作場の一群がある。この宮殿の近くで大トロスも発掘されている。
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ピュロス
Pyrrhos
生没年:前319-前272

ギリシア北方エペイロス(エピルス)の国王。在位前307-前303年,前297-前272年。父王の失脚後王位に就いたが反乱に遭って逃亡,前297年プトレマイオス2世の援助で復位を遂げる。南イリュリア地方にまで王国を拡大,マケドニアの抗争にも介入して国境地帯を獲得し,アテナイテッサリアの一部をマケドニアの支配から解放したが,前284年リュシマコスに敗れ占領地を返還せざるをえなかった。前280年ローマに圧迫されていたタレントゥム市の要請に応えてローマ軍を破り,ローマまでわずかの所まで迫った。しかし勝利を得るにいたらず,シチリアに渡り,ローマの同盟者カルタゴ人を討った。あまりに厳しい彼の統治はシチリア住民の反感を招き,前275年ローマ軍に敗れたのを契機にエペイロスへ撤退した。のち富の獲得のためスパルタに遠征し,アルゴス戦死を遂げた。巧みな戦略家で勇敢な戦士であったが,エペイロスのヘレニズム化と強国化に成功したほかには,対外戦争で決定的な勝利を得ることはできなかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピュロス」の意味・わかりやすい解説

ピュロス
Pyrrhos; Pyrrhus

[生]前319
[没]前272
古代エピルスの王 (在位前 307~302,前 297~272) 。 12歳で王位についたが5年後に簒奪され,デメトリオス1世に従ってアジアへ行き,その後人質としてアレクサンドリアへ送られ,そこでプトレマイオス2世フィラデルフォスの娘アンチゴネと結婚,彼の援助を得て王位に復帰 (前 297) 。次に,エピルスのマケドニアからの解放を試み,またマケドニアの内紛を利用して国境地方の山地を獲得。その後もコルキュラ,マケドニアの西半分,テッサリアと領土を拡張し,アイトリアやアテネと同盟も結んだが,リュシマコスによりエピルスへと押し返された (前 285) 。一時イタリアへの介入を試み,シチリアまで進撃した (前 280~275) が,再びエピルスへ帰還。マケドニア征服を試みたが,次いで突如ペロポネソスに転じ,スパルタの包囲に失敗してアルゴスで殺された。アンブラキアを首都とし,ドドナには大劇場を建設,エピルスのギリシア化をなしとげた。また,戦記や戦術論を書いたが,断片しか残っていない。

ピュロス

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百科事典マイペディア 「ピュロス」の意味・わかりやすい解説

ピュロス

ギリシア北方エペイロス(エピルス)の王(在位前307年―前303年,前297年―前272年)。ヘレニズム的君主国家を樹立,マケドニア,テッサリアに進出。一方,南イタリアのギリシア人植民市タレントゥムを援助し2度にわたりローマ軍を撃破,シチリアにも出兵した。のちスパルタ攻撃に転じて敗死。
→関連項目ネオプトレモスミュケナイ文明メッセニア

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旺文社世界史事典 三訂版 「ピュロス」の解説

ピュロス
Pyros

ミケーネ時代の宮殿址
王は大きな石で城塞 (じようさい) を築き,その宮殿は壁画で飾られていた。線文字Bを記した数千の粘土板(ピュロス文書)が発見されたが,それによると,王宮の役人や書記は課税・賦役徴収・生産物配給などを行っていたという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピュロス」の意味・わかりやすい解説

ピュロス(古代ギリシアのエペイロスの王)
ぴゅろす

ピロス


ピュロス(ギリシア)
ぴゅろす

ピロス

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世界大百科事典(旧版)内のピュロスの言及

【ネオプトレモス】より

…その名は〈新しき戦士〉の意。ピュロスPyrrhos(〈赤毛の子〉)とも呼ばれる。母親はスキュロス島の王女デイダメイアDēidameia。…

【ネストル】より

…ギリシア伝説のピュロス王。高齢の身にもかかわらず,2人の息子とともに90隻の軍船を率いてトロイア戦争に参加,みずからも戦場に出るかたわら,総大将アガメムノンとアキレウスの争いの仲裁に努めるなど,ギリシア軍の最長老として時宜に応じた助言・忠告を与えた。…

【ネオプトレモス】より

…その名は〈新しき戦士〉の意。ピュロスPyrrhos(〈赤毛の子〉)とも呼ばれる。母親はスキュロス島の王女デイダメイアDēidameia。…

【マクシモス】より

…貴族の家柄に生まれ,皇帝ヘラクレイオス1世の秘書となったが,615年ころ修道生活に転じた。640年ころから,当時政治的な理由で行われていたキリスト単意論の弾劾にたずさわり,645年にカルタゴで前コンスタンティノープル総主教ピュロスPyrrhosと論争を行った。これをきっかけに西方教会も単意論を異端とした。…

【ローマ】より

… ラティウムの平定後まもなく,前326年より前275年まで数次にわたって南東の山地種族サムニテス(サムニウム人)と激しく戦い,北東部のピケネス族,マルシ族,ウンブリアの諸都市と同盟を結んだ。サムニテスの服属後,南部に進出し,タレントゥムと戦い,後者の救援に遠征してきたエペイロス王ピュロスを敗退させた(前275)。こうしてローマは北部のガリア・キサルピナを除いたイタリアを制覇し,プトレマイオス王国と友好条約を結ぶ(前273)など,ギリシア世界と直接関係をもつまでになった。…

※「ピュロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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