フランスの画家。パリ生れ。1909年家族とともにロンドンに渡り,ローヤル・アカデミーに学ぶ。17年兵役のためフランスに戻り,やがてA.マルロー,J.ポーランら文学者と交友。28年にマルローの依頼でダンテの《神曲》地獄篇のリトグラフによる挿画を制作し,これがアンフォルメルを予告するものとなる。40年から《人質》の連作を手がけ,45年ルネ・ドルーアン画廊で展観した。アンフォルメルの先駆でもあるこの作品は,絵具をパレットナイフで塗り重ねた厚い画肌をもち,顔や風景といった主題にもまして,画面そのものの強さによって際だっている。50年ころからは1作品について300点制作するといった〈複数原画originaux multiples〉の試みもおこなった。47年以降欧米各地を旅行し,59年来日。60年にベネチア・ビエンナーレ大賞を獲得した。
執筆者:千葉 成夫
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フランスの画家。パリ生まれ。父親の死後ロンドンに行き、ロイヤル・アカデミーなどで美術教育を受ける。1917年応召されフランスに戻る。21年ジャンヌ・カステルの支持を得て最初の油彩画を描く。28年リトグラフによるダンテ『地獄編』の挿絵を制作し、このころから抽象的な傾向をみせるようになる。34年フランス・アルプス山麓(さんろく)でスキー教師をして生活。40年パリに戻り、42年から44年にかけて「人質」シリーズを制作。この作品は、45年に発表され、アンフォルメル絵画の先鞭(せんべん)としてヨーロッパに影響を与え、入念な厚塗りと繊細な色彩は彼の絵画の特徴となった。49年から53年にかけて作品の複数印刷や「複数原画」の制作に専念する。60年ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞した。シャトネ・マラブリで没。
[徳江庸行]
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