主として1950年代に前衛芸術の一動向となった叙情的、表現主義的傾向の抽象芸術およびその運動をさす。フランスの批評家ミシェル・タピエMichel Tapié(1909―1987)によって1952年パリで開催された展覧会「アンフォルメルの意味するもの」Signifiant de L'informelからこの名称が生まれた。同年タピエは、小冊子『別の芸術』Un art autreを出版し、この運動の趣旨を宣言している。展覧会に参加した、もしくは『別の芸術』で取り上げられた主要な作家をあげれば次のとおりである。デュビュッフェ、フォートリエ、マチューGeorges Mathieu(1921―2012)、ボルス、アルトゥング、ポロック、ミショー、トビー、デ・クーニング、リオペルJean-Paul Riopelle(1923―2002)、スーラージュ、アペル、ロスコ、サム・フランシス、フランツ・クライン、カポグロッシたちである。したがって、表現主義、叙情的抽象から、アメリカの「太平洋派」や「アクション・ペインティング」などに至る広範で多様な傾向をいわば総括した形であり、それにタピエが精神的、系譜的に意味を付与したのがアンフォルメルである。すなわち、後期キュビスム、あるいは幾何学的抽象の定型化、アカデミスム化に対立して、「非定形アンフォルメル」なもののなかに、第二次世界大戦後における精神の激情的表現、「生の動き」をみいだそうとする運動である。
この運動は、1950年代から少なくとも1960年代初頭までは国際的な広がりをみせ、多くの批評家、芸術家たちの間に共感を巻き起こした。日本人としては、批評家の富永惣一(そういち)(1902―1980)、華道家、映画監督の勅使河原宏(てしがはらひろし)、画家の今井俊満(としみつ)、堂本尚郎(ひさお)などがその一環となった。そしてヨーロッパ的合理主義、古典主義への反抗という一面のかたわら、東洋の墨蹟(ぼくせき)や禅の思想との関連という他面をもったことが、いっそう国際的な広がりを強めた。しかし1960年代末以降、しだいに他の前衛的な動向のなかに埋没していったことも事実である。
[中山公男]
『美術出版社著・刊『アンフォルメル以後――日本の美術はどう動いたか』(1964)』▽『美術出版社編・刊『現代美術事典――アンフォルメルからニュー・ペインティングまで』(1985)』
ヨーロッパ,とくにフランスを中心に1950年代に展開された抽象絵画の動向を指す。〈アンフォルメル〉という語は,52年にフランスの批評家タピエMichel Tapié(1909-87)が名付けたもの。第2次大戦前の抽象絵画は全体としては,幾何学的抽象に落ち着いてマンネリ化してしまっていた。大戦を経て人間の自己表現というものがあらためて問い直され,しかも,もはやシュルレアリスム的な象形的(フィギュラティフ)絵画は不可能であるという認識に立って絵画表現の可能性が探られていったときに,写実的ないし象形的な形体表現に頼らずに,自動記述的表現をそのまま画面に定着することのなかに自己表現を託してゆこうとする抽象絵画が生まれた。結果としての作品の形状が〈不定形,無形体〉であるところから〈アンフォルメル〉と呼ばれる。〈別の芸術〉〈抒情的抽象〉〈熱い抽象〉〈タシスム〉などとも名付けられたが,いずれも言わんとするところはほぼ同じとみてよい。アンフォルメルはほぼ同時期にアメリカでJ.ポロックが始めたアクション・ペインティングに対応し,広い意味ではともに抽象表現主義の名で包括できる。フォートリエやボルスの戦中,戦争直後の作品が先駆的な作例であるが,前者は運動としてのアンフォルメルには批判的であり,後者は早世している。運動としてのアンフォルメルは,彼ら先駆者の仕事をふまえて,マチューGeorges Mathieu(1921- ),アルトゥングHans Hartung(1904-89),カポグロッシGiuseppe Capogrossi(1900-72),リオペルJean-Paul Riopelle(1923- )らが展開した活動を指す。そして,タピエ(《別の芸術Un art autre》1952)やマチュー(《タシスムのかなたAu-delà du Tachisme》1963)の著作も手伝って,たちまちヨーロッパ中にひろまり,50年代から60年代初頭にかけての抽象絵画そのものを意味するまでにいたった。しかし,それとともに急激に単なるスタイルと化して内容を失い,通俗化していったことも否めない。アンフォルメルの発生時点においては,描くという行為じたいの自立,その〈表現過程そのものの自己目的化〉(宮川淳)というきわめて先鋭な問題が突きつけられたと言えるが,それは,運動としてのアンフォルメルではなくて50年代末期から60年代にかけて起こる幾多の前衛的動向のなかにうけつがれていった。運動としてのアンフォルメルはそこから静的な様式だけを取り出したにとどまったのである。アンフォルメルはヨーロッパ,アメリカのみならず,世界的なひろがりをみせ,57年にはタピエ,マチューらの来日によって日本にももたらされ,反芸術的活動を行っていた具体美術協会をアンフォルメル絵画一辺倒に変質させたばかりでなく,日本中をアンフォルメル旋風のなかに巻き込んだ。しかし日本におけるアンフォルメルは,それを様式としてしか受容せず,大量の亜流も生んだが,むしろ反芸術からネオ・ダダにいたる作家たちが輩出するひとつのきっかけになったという,ある意味ではアイロニカルな役割を果たした点こそが重要だったと言える。(図)
執筆者:千葉 成夫
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…〈現代〉という語はいずれは別の語に置き換えられることになるのであろうが,すくなくとも当分は現代美術の名で近代とは異なる新たな時代様式,様式というよりは新たな価値概念をもった時代を指し示そうとしているのである。
[〈現代〉の様式と〈近代〉の価値概念の矛盾]
第2次大戦直後のアンフォルメルやアクション・ペインティングは近代美術の最終の局面を示す動向であり,続くネオ・ダダやヌーボー・レアリスムNouveau Réalismeは近代の崩壊を象徴するとともに,ポップ・アートで発現する大衆社会化状況を告知したと言える。一方で,現代という時代の様式としての反映が,ネオ・ダダや反芸術以降の諸動向のなかにはっきり現れてゆく。…
… 広義には,アメリカの抽象表現主義とほぼ時を同じくしてヨーロッパ,とくにフランスで現れた類似の動向をも指す。これは,アンフォルメル,抒情的抽象,タシスムTachisme,熱い抽象などとさまざまによばれた。日本では,50年代後半から,フランスのアンフォルメルが導入されて一時代を画したため,アンフォルメルの呼称が一般化した。…
…60年代の作品は舞台空間の構成をとり,《空間概念》のシリーズでは,穴によって流れるような線の溝を作ったキャンバスを背景に木製の枠をはめ,彼の,宇宙の不思議なリズムを表現する。フォンタナの空間主義はアンフォルメルの一翼をになうものともいえ,戦後イタリアの若い芸術家に多大な影響を与えた。【井関 正昭】。…
…おびただしい数のグアッシュと100点にみたない油彩は,自己の存在を絵で問おうとした点で,サルトルが早くから注目していたように,人間の実存の悲劇が描かれている作品である。それと同時に,象形的(フィギュラティフ)な表現の崩壊を見せている点でアンフォルメルの先駆として位置づけられる。この2点において,さらにそれが切迫した表現行為によって展開されている点において,アメリカのJ.ポロックに対比されうる。…
※「アンフォルメル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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