出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フランツ[2世]
Franz Ⅱ
生没年:1768-1835
最後の神聖ローマ皇帝。在位1792-1806年。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804-35)。神聖ローマ皇帝レオポルト2世の長男。ナポレオンに敗れて1804年ハプスブルク家世襲領をオーストリア帝国に再編,06年神聖ローマ帝国は解体する。10年娘マリー・ルイーゼMarie Louise(1791-1847)をナポレオンに嫁がせ帝国の温存を図ったが,ウィーン会議後は官僚と軍隊の頂点にあってメッテルニヒに政治をゆだね,正統主義による反動的役割を果たした。
執筆者:進藤 牧郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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フランツ2世
生年月日:1768年2月12日
神聖ローマ帝国の最後の皇帝(在位1792〜1806)
1835年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のフランツ2世の言及
【トスカナ[州]】より
…メディチ家の家運もしだいに衰え,ジャンガストーネの死(1737)によって断絶してしまった。[トスカナ大公国]
[啓蒙的改革]
トスカナ大公位はオーストリア皇女マリア・テレジアの夫ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファン([フランツ2世])のものとなった。ポーランド継承戦争の結果ポーランド王位を追われたスタニスワフ・レシチニスキーにロートリンゲンが与えられることになり,その代償にトスカナを得たわけである。…
【ハプスブルク家】より
…しかしプロイセンの[フリードリヒ2世]大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年[オーストリア継承戦争]に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世Franz I(神聖ローマ皇帝,在位1745‐65)に皇帝位を確保した。戦後は軍・行財政など国内改革を進め,外交でも数世紀にわたって敵対関係にあったフランスとの同盟を成功させ,プロイセンの孤立化を図り,[七年戦争]ではロシアとともにフリードリヒ2世を苦しめたが,シュレジエンの奪回には失敗した。…
※「フランツ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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