フンボルト理念(読み)フンボルトりねん

大学事典 「フンボルト理念」の解説

フンボルト理念
フンボルトりねん

フンボルトの大学構想]

ドイツの新人文主義の代表的思想家として知られるヴィルヘルムフォン・フンボルト,W.von(1767-1835)は,プロイセンの教育行政官として活躍した経歴も持つ。それはわずか1年3ヵ月という短い期間のことであるが,フンボルトは1809年にプロイセン政府によって内務省文教局長に任ぜられると,学校制度改革に取り組むとともに,現代の大学のモデルにもなったとされるベルリン大学(ドイツ)(現,ベルリン・フンボルト大学)の創設(1810年)にも尽力した。それを支えたフンボルトの新人文主義的な大学構想そのものや,フンボルトの大学構想またはベルリン大学のスタイルをモデルにしたとされる大学を支える理念は,一般に「フンボルト理念」と呼ばれている。

 フンボルトの大学構想の柱であり,また現代の大学のモデルにもなっている主要な理念が,教育と研究の結合と,国家からの学問(Wissenschaft)の自由,すなわち大学の自治である。1810年のベルリン大学の創設以前,ドイツにはテュービンゲンマールブルクといった,中世以来の伝統的な比較的小規模な大学と,イエーナ,ゲッティンゲン,ハレ(現,ハレ・ヴィッテンベルク大学)ライプツィヒといった比較的大きな規模の大学が存在した。前者のなかには,既成の学問内容を学生に一方的に教育するだけの場として,当時の大学不要論を呼び起こすほど退廃的な状況にあるところも少なくなかった。それに対して後者は,とりわけ17世紀末から18世紀の啓蒙期には,国家官吏の養成をおもな目的とする法学教育などの実用的な学問に重点を置いたことで,我が子を国家官吏に育てたいという貴族からは,法学において大学教授の研究に基づいた質の高い教育を受けることができる場として支持を受けた。また領邦国家からも,貴族から多額の寄付などの収入が得られるとして重用された。しかし,フンボルトが理想とするギリシア古典に描かれる普遍的な人間像は,既知の内容を教えるだけの小規模大学でも,国家の重要な経済的拠点となっていた実学重視の大規模大学でも実現しうるものではなかった。

 フンボルトは,普遍的な人間像に至るプロセスを「Bildung教養」と呼び,これを実用的な学問に先行すべきものと位置づけ,大学の使命とした(「Bildungビルドゥング」は,「教養」以外にも「陶冶」「人間形成」などと訳される)。しかし教養は,教授から学生への一方的な活動によってもたらされるものではない。もっぱら自己修練,すなわち自律的,自発的な活動をもってして得られるものであった。そこで,フンボルトは「教育と研究(フンボルト)」という,それまで行われていた一方向的な活動に,「研究」という自立的,自発的な活動を統合しようとする。さらに,自立的,自発的な活動である「研究」を行うには,学問を教える自由や学ぶ自由,探求する自由が保障されていなければならないとして,フンボルトは,国家が大学の学問内容に干渉してはならないとする。ここからフンボルトは,教授の選任については国家の権限としながらも,あらゆる領域における大学の自治を主張する。

[フンボルト理念の影響]

フンボルトの大学構想あるいはそれを体現したベルリン大学のスタイルは,新しい大学のモデルとして他の大学にも,少しずつ変容されつつも広く採用されていった。その背景には,当時,社会のエリートとして政治,社会,文化の各分野で圧倒的な力を持つようになっていた「教養市民層(ドイツ)Bildungsbürgertum」の存在がある。貴族ではない「教養市民層」の人々は,大学で教養を身につけていることが「教養市民層」であることの前提であった。大学が彼らを「教養市民層」の一員として証明する一方で,彼らもまた大学を修了すると,おもに官僚,大学教授,聖職者,医師,弁護士,判事,音楽家,芸術家など社会的地位の高い専門職に就いて,教養を身につけることのできる大学の維持と発展に貢献したのである。やがて,ベルリン大学をはじめとするドイツの大学が世界最高水準の大学としてドイツ国外にも知られるようになると,日本人を含む多くの外国人がドイツの大学に留学してくるようになった。

 19世紀後半に入ると,工業化の波がドイツにも押し寄せ,実用指向の工科大学や商科大学が力を増す一方,フンボルトが唱導してきた大学教育における教養主義は後退していった。しかし,かつて多くの留学生をドイツに送り込んだアメリカ合衆国や日本では「フンボルト理念」が生かされ,専門的な学修に教養の学修が先行する学修スタイルや,ゼミナールにおける教授と学生がともに未知の領域へと学問を拡張・探求する研究スタイルなどは,現代の大学でも一般にみられるような馴染み深いものとなった。

 なお近年では,現代の大学モデルを提供した「フンボルト理念」は,そもそもフンボルト自身の大学構想やベルリン大学を起源としているのか,後世の者が普及させたのではないかとする,従来の見解を転回するような研究が,ドイツのフライブルク大学のパレチェク,S.(1957-)らによって進められている。
著者: 髙谷亜由子

参考文献: 潮木守一「フンボルト理念とは神話だったのか―パレチェク仮説との対話」『大学論集』第38集,広島大学高等教育研究開発センター,2007.

参考文献: 金子勉「ドイツにおける近代大学理念の形成過程」『大学論集』第42集,広島大学高等教育研究開発センター,2011.

参考文献: 別府昭郎「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトとベルリン大学創設の理念」『教育学研究』第70巻第2号,日本教育学会,2003.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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