フンボルト(読み)ふんぼると(英語表記)Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト(Alexander von Humboldt)
ふんぼると
Alexander von Humboldt
(1769―1859)

ドイツ地理学者。政治家、人文主義者のW・フォン・フンボルトの弟。リッターとともに近代地理学の祖といわれている。ベルリンに生まれ、ゲッティンゲンで学んだ。1779~1804年の長期にわたり北部アンデスを中心として、ラテンアメリカの科学探検を行った。とくに植物生態と環境との関係に注目し、自然地理学と植物生態学の基礎を確立した。中央アジアにも旅行をしたが、その後は主としてパリに居住し著述に専念した。地理学的探検家として有名である。とくに気象観測機器の正確な測定による論拠、植物分類学の進歩への貢献など、生物に及ぼす外界の環境影響の研究を中心として、自然地理学の業績が顕著である。1830~1848年は外交官として活躍したが、その間、19世紀前半の科学を詳細に普遍的に描いた、彼のライフワークとされる『コスモスKosmos5巻(1845~1862)の執筆に従事した。

 フンボルトは系統的地理学の発達に対する貢献とともに、地誌学を一定地域Raum(ラウム。空間)における人類の生活と自然との総体的関係とその変化を取り扱う科学として認識し、地理学の発達にも大きく寄与した。科学に対する広範な業績により、ドイツの科学研究基金としてフンボルト財団が設置され、各国の地理学者はもちろん、他の分野多くの人々も、彼の恩恵を現在も受けている。彼の名は、ペルー沖を北上するフンボルト海流(ペルー海流)をはじめ、山・川・湾・大学などに残されている。

[市川正巳 2018年8月21日]


フンボルト(Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt)
ふんぼると
Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt
(1767―1835)

プロイセンの政治家、人文主義学者。地理学者A・フォン・フンボルトの兄。曽(そう)祖父の代までは市民身分だった新貴族の家柄に生まれ、ゲッティンゲン大学などで法学を学んだが、むしろ古典古代研究とカント哲学に没頭した。1790年ベルリンの裁判所に勤務したが、翌1791年結婚とともに退職。イエナに移住(1794)してシラー、ゲーテ、フィヒテ、シュレーゲル兄弟らと交わり、またパリに移住(1797~1799)し、スペインなどに旅行して人文主義的教養と言語研究の深化を目ざした。ローマ駐在プロイセン公使(1801~1808)を経て、内務省文教局長となり(1809~1810)、人文ギムナジウムを創設し、ベルリン大学創立に尽力するなど、古典教育を柱とする全人教育を目ざした学制改革に取り組んでプロイセン改革の一翼を担った。1810年オーストリア大使となり、ウィーン会議ではハルデンベルクとともにプロイセン代表として活動した。イギリス大使などを務めたのち、1819年国務相となったが、カールスバートの決議に反対し、個人の自由を基礎とする憲法制定を主張してハルデンベルクと対立し、同年職を免ぜられた。以後は学問研究に専念したが、とくに比較言語学的研究に基づく言語哲学は、彼の最大の学問的業績となった。

[岡崎勝世 2018年7月20日]

『亀山健吉著『フンボルト』(中公新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト
Humboldt, (Karl) Wilhelm, Freiherr von

[生]1767.6.22. ポツダム
[没]1835.4.8. テーゲル
ドイツの言語学者,外交官。 A.フンボルトの兄。ベルリン,ゲッティンゲン,イェナの各大学に学び,ゲーテ,シラーと親交を結んだ。世界の多数の言語を研究,各民族の言語と世界観との間に表裏一体の関係を認めるその言語観は後世に大きな影響を与えた。外交官としては 1802~08年ローマ駐在大使をつとめ,のち文相。ウィーン会議のプロシア代表をもつとめた。ベルリン大学 (現フンボルト大学) を創設したことでも知られる。晩年は政界を引退し,比較言語学の研究に専念した。主著は死後公刊の『ジャワ島のカウィ語について』 Über die Kawisprache auf der Insel Java (3巻,1836~40) 。

フンボルト
Humboldt, Alexander von

[生]1769.9.14. ベルリン
[没]1859.5.6. ベルリン
ドイツの博物学者,探検家,地理学者。近代科学としての地球科学,生態学,地理学の基礎をつくった。言語学者であった W.フンボルトの弟。ゲッティンゲン大学,フライブルク鉱山大学に学び,1792~97年にフランケン侯国の鉱山事務局長。オーストリア,ババリアの塩鉱地域,ウィーン,北イタリア,スイスなどを旅行。 99~1804年にスペイン王室の援助を受けて中央アメリカ,南アメリカ北部を調査。 08年にパリに定住,著述に専心した。 27年にベルリンに戻り,29年ロシア皇帝の招きで,ウラル,アルタイ,イリ地方を探検,晩年は国際磁気観測学会を創設した。主著に『コスモス』 Kosmos (5巻,1845~62) がある。

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