フンボルト(読み)ふんぼると(英語表記)Alexander von Humboldt

デジタル大辞泉 「フンボルト」の意味・読み・例文・類語

フンボルト(Humboldt)

(Karl Wilhelm von ~)[1767~1835]ドイツの政治家・人文主義学者。ベルリン大学創設者の一人。プロイセンの公使としてドイツ統一に寄与。また、シラーゲーテなどとも親交を結んだ。のち、言語学・歴史哲学の著述に専念、国語は民族精神の表現であるとする言語哲学を唱えた。著「ジャワ島におけるカビ語について」「歴史家の使命について」など。
(Alexander von ~)[1769~1859]ドイツの地理学者の弟。近代地理学の創設者の一人。世界各地を旅行。植物生態と環境との関係に注目し、植物生態学・自然地理学の基礎を確立した。著「コスモス(宇宙)」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「フンボルト」の意味・読み・例文・類語

フンボルト

  1. [ 一 ] ( Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt カール=ウィルヘルム=フライヘア=フォン━ ) ドイツの言語学者、政治家。ウィーン会議にはプロイセン代表となった。後、ベルリン大学を創設。また、バスク語・インド語の文法を研究し、言語哲学の基礎を築いた。(一七六七‐一八三五
  2. [ 二 ] ( Friedrich Heinrich Alexander Freiherr von Humboldt フリードリヒ=ハインリヒ=アレクサンダー=フライヘア=フォン━ ) ドイツの自然科学者、地理学者。[ 一 ]の弟。地誌と通論的地理学を統一し、近代地理学を成立させた。一九世紀前半の科学の大成「コスモス」を書いた。フンボルト海流は彼の名にちなむ。(一七六九‐一八五九

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト(Alexander von Humboldt)
ふんぼると
Alexander von Humboldt
(1769―1859)

ドイツの地理学者。政治家、人文主義者のW・フォン・フンボルトの弟。リッターとともに近代地理学の祖といわれている。ベルリンに生まれ、ゲッティンゲンで学んだ。1779~1804年の長期にわたり北部アンデスを中心として、ラテンアメリカの科学的探検を行った。とくに植物生態と環境との関係に注目し、自然地理学と植物生態学の基礎を確立した。中央アジアにも旅行をしたが、その後は主としてパリに居住し著述に専念した。地理学的探検家として有名である。とくに気象観測機器の正確な測定による論拠、植物分類学の進歩への貢献など、生物に及ぼす外界の環境影響の研究を中心として、自然地理学の業績が顕著である。1830~1848年は外交官として活躍したが、その間、19世紀前半の科学を詳細に普遍的に描いた、彼のライフワークとされる『コスモス』Kosmos5巻(1845~1862)の執筆に従事した。

 フンボルトは系統的地理学の発達に対する貢献とともに、地誌学を一定地域Raum(ラウム。空間)における人類の生活と自然との総体的関係とその変化を取り扱う科学として認識し、地理学の発達にも大きく寄与した。科学に対する広範な業績により、ドイツの科学研究基金としてフンボルト財団が設置され、各国の地理学者はもちろん、他の分野の多くの人々も、彼の恩恵を現在も受けている。彼の名は、ペルー沖を北上するフンボルト海流(ペルー海流)をはじめ、山・川・湾・大学などに残されている。

[市川正巳 2018年8月21日]


フンボルト(Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt)
ふんぼると
Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt
(1767―1835)

プロイセンの政治家、人文主義学者。地理学者A・フォン・フンボルトの兄。曽(そう)祖父の代までは市民身分だった新貴族の家柄に生まれ、ゲッティンゲン大学などで法学を学んだが、むしろ古典古代研究とカント哲学に没頭した。1790年ベルリンの裁判所に勤務したが、翌1791年結婚とともに退職。イエナに移住(1794)してシラー、ゲーテ、フィヒテ、シュレーゲル兄弟らと交わり、またパリに移住(1797~1799)し、スペインなどに旅行して人文主義的教養と言語研究の深化を目ざした。ローマ駐在プロイセン公使(1801~1808)を経て、内務省文教局長となり(1809~1810)、人文ギムナジウムを創設し、ベルリン大学創立に尽力するなど、古典教育を柱とする全人教育を目ざした学制改革に取り組んでプロイセン改革の一翼を担った。1810年オーストリア大使となり、ウィーン会議ではハルデンベルクとともにプロイセン代表として活動した。イギリス大使などを務めたのち、1819年国務相となったが、カールスバートの決議に反対し、個人の自由を基礎とする憲法制定を主張してハルデンベルクと対立し、同年職を免ぜられた。以後は学問研究に専念したが、とくに比較言語学的研究に基づく言語哲学は、彼の最大の学問的業績となった。

[岡崎勝世 2018年7月20日]

『亀山健吉著『フンボルト』(中公新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト
Alexander von Humboldt
生没年:1769-1859

ドイツ(プロイセン)の自然学者,科学的探検家。地理学や生態学の父と仰がれ,火山学,地震学,気候学,海洋学などの発展にも貢献。K.W.vonフンボルトの弟。ベルリンに生まれ,フランクフルト・アン・デル・オーデルとゲッティンゲンの両大学で植物学,地質学など主として自然諸科学を修め,鉱山監督官となったが,まもなく辞任。コロンブスにならって新大陸の科学的再発見を志し,1799-1804年,植物学者のエーメ・ボンプランAiméBonpland(1773-1858)とともにベネズエラ,ブラジル,エクアドル,メキシコなどを科学的に調査。その成果は《新大陸の熱帯諸地域への旅行》35巻(1805-34)の大著にまとめられた。その間,1802年にはチンボラソ火山を5810mの高さまで観測調査しながら登り,当時の登山記録を樹立。そのときの研究成果は《植物地理学の理念--熱帯諸地域の自然画付き》として1807年出版され,J.W.ゲーテにささげられた。これは,自然諸現象が互いに関連しながら垂直的に変化する地理的秩序を初めて実証し,《自然の観察》(1808)などとともに近代地理学の重要な方法を提供した記念すべき著作である。

 1804-27年,大半をパリで暮らし,27年以降はベルリンに住み,30年国王の顧問官についてフリードリヒ・ウィルヘルム3世と4世に仕え,政治ならびに学術・文化の行政面でも活躍。ゲーテ,C.リッター,L.J.ゲイ・リュサック,G.キュビエらとも親交があった。ライフワークの《コスモス--自然学的世界記述の試み》5巻(1845-62)は,総合的世界像を樹立した古典,自然研究の啓蒙書であり,その膨大な注記は科学史上の資料として再評価される必要がある。彼の業績を記念して設立されたアレクサンダー・フォン・フンボルト財団は,地理学に限らず広い分野にわたって外国人研究者を招聘するドイツの代表的機関である。
執筆者:


フンボルト
Karl Wilhelm von Humboldt
生没年:1767-1835

ドイツの政治家,言語学者。プロイセンの外交官としてウィーン会議など数々の重要な会議に参加,また大臣としてベルリン大学を開設した。自然科学者・地理学者A.vonフンボルトの兄。シラーやゲーテをはじめ当時の文化人の多くと交際があり,余暇はすべて言語の研究にささげた。バスク語,インド語の文法を研究し,ギリシア語の翻訳をしたほか,アメリカ大陸の諸言語についての数多くの論文や文献が死後に残されている。主著は《ジャワ島のカビ語についてÜber die Kawisprache auf der Insel Jawa》(1836-40)。言語類型論の先駆者の一人で,言語の哲学では後の時代に大きな影響を与えており,〈言語はエネルゲイア(活動)であって,エルゴン(作品)ではない〉という言葉はいたるところに引用されている。また,現実は非形態的で,それぞれの言語がおのおの違った形でそれを取り入れるという,現実把握の手段としての言語という考えを発表し,これはF.deソシュールを通じて構造主義の基本的言語理解の中に入り込んでいる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

大学事典 「フンボルト」の解説

フンボルト
Karl Wilhelm von

18世紀後半から19世紀前半に活躍した,ドイツの新人文主義の代表的思想家で,プロイセンの政治家,教育行政官,外交官でもある。2歳年下の弟に,博物学者として自然科学の分野で名を馳せたアレクサンダー(1769-1859)がいる。

 フンボルトは20歳の時,フランクフルト・アン・デア・オーダー大学で法学を学ぶものの,その1年後にゲッティンゲン大学に移るとギリシア古典とカント哲学に関心を寄せるようになり,ゲーテ,シラー,フィヒテらと親交を深める中で人文主義的教養の研究に没頭した。その後,ローマ教皇庁の特使(1801~09年)を経て,1809年にプロイセン政府より内務省文教局長に任ぜられると,わずか1年余のことであるが,新人文主義の立場から,当時の身分に応じた学校制度に替えて初等学校,ギムナジウム,大学の三つの教育段階からなる分岐型の学校制度の構築,ギムナジウム教員を対象とした教職試験の導入など,さまざまな学校改革に尽力した。その最後を飾ったのが,教育と研究の一体化を図り,現代の大学のモデルにもなったベルリン大学(現,ベルリン・フンボルト大学)の創設である。1810年からは外交官として活躍し,19年には内務大臣となったが,大学に対する監視の強化などを定めたカールスバード決議に反対したことで同年罷免され,以降は公務を離れ学術研究に専念した。
著者: 髙谷亜由子

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

百科事典マイペディア 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト

ドイツの地理学者。リッターと並び近代地理学の基礎を築いた一人。植物,動物,天文,鉱物などの分野でも業績を残した。フランクフルト,ベルリン,ゲッティンゲンの諸大学,フライベルクの鉱山専門学校で学ぶ。世界各地に広範囲な研究旅行を行い,特に中南米旅行の調査全35巻で有名。ほかに百科全書派の影響を受けた《コスモス》5巻など。K.W.v.フンボルトの弟。
→関連項目オリノコ[川]自然地理学

フンボルト

ドイツの言語学者,文芸評論家。ゲーテ,シラーの友人。言語類型論および言語哲学の先駆者で,民族語と民族の精神のつながりを強調した。プロイセン改革では文部大臣としてベルリン大学(1810年,現フンボルト大学)の設立に尽力するなど政治にも関係したが,理想主義に徹したため,1819年以後は下野。A.フンボルトの兄。
→関連項目ベルリン大学

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フンボルト」の意味・わかりやすい解説

フンボルト
Humboldt, (Karl) Wilhelm, Freiherr von

[生]1767.6.22. ポツダム
[没]1835.4.8. テーゲル
ドイツの言語学者,外交官。 A.フンボルトの兄。ベルリン,ゲッティンゲン,イェナの各大学に学び,ゲーテ,シラーと親交を結んだ。世界の多数の言語を研究,各民族の言語と世界観との間に表裏一体の関係を認めるその言語観は後世に大きな影響を与えた。外交官としては 1802~08年ローマ駐在大使をつとめ,のち文相。ウィーン会議のプロシア代表をもつとめた。ベルリン大学 (現フンボルト大学) を創設したことでも知られる。晩年は政界を引退し,比較言語学の研究に専念した。主著は死後公刊の『ジャワ島のカウィ語について』 Über die Kawisprache auf der Insel Java (3巻,1836~40) 。

フンボルト
Humboldt, Alexander von

[生]1769.9.14. ベルリン
[没]1859.5.6. ベルリン
ドイツの博物学者,探検家,地理学者。近代科学としての地球科学,生態学,地理学の基礎をつくった。言語学者であった W.フンボルトの弟。ゲッティンゲン大学,フライブルク鉱山大学に学び,1792~97年にフランケン侯国の鉱山事務局長。オーストリア,ババリアの塩鉱地域,ウィーン,北イタリア,スイスなどを旅行。 99~1804年にスペイン王室の援助を受けて中央アメリカ,南アメリカ北部を調査。 08年にパリに定住,著述に専心した。 27年にベルリンに戻り,29年ロシア皇帝の招きで,ウラル,アルタイ,イリ地方を探検,晩年は国際磁気観測学会を創設した。主著に『コスモス』 Kosmos (5巻,1845~62) がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「フンボルト」の解説

フンボルト(ヴィルヘルム・フォン)
Karl Wilhelm Freiherr von Humboldt

1767~1835

ドイツの言語学者,文人政治家。古典主義的ヒューマニズムの代表者でゲーテシラーと親しく,プロイセン改革の文教部門を指導,ベルリン大学を創設した。弟のアレクサンダーは有名な地理学者。


フンボルト(アレクサンダー)
Alexander von Humboldt

1769~1859

ドイツの博物学者,地理学者。地磁気の研究を行い,また大著『コスモス』(1845年刊)を通じてヨーロッパにおける学問水準の向上に寄与した。リッターと並ぶ近代地理学の創設者。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「フンボルト」の解説

フンボルト
Alexander von Humboldt

1769〜1859
ドイツの地理学者・博物学者
南北アメリカ・中央アジアその他を踏査し,気象学・海洋学を創設。また,博物学研究の成果を大著『宇宙』にまとめた。「近代地理学の父」と呼ばれる。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフンボルトの言及

【クレレ】より

…これらの雑誌に才能ある青年学者たちの寄稿を私心なく呼びかけ,N.H.アーベル,C.G.J.ヤコビ,シュタイナーJacob Steiner(1796‐1863)らの才能を世に認知させる役割を果たした。フンボルトF.W.H.A.von Humboldt(1769‐1859)と共同して,プロイセン改革期の科学振興に尽力し,ベルリン科学アカデミーほか,数多くの各国科学アカデミー会員に選出された。【佐々木 力】。…

【オリノコ[川]】より

…1498年コロンブスの第3次航海の際オリノコ河口が発見され,1560年エル・ドラドをめざしたスペイン人コンキスタドール,ロペ・デ・アギレが川の大部分を探検したとされる。その後1799年にはドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトが上流域を調査し,アマゾン川との連絡点を発見したが,源流域が突き止められたのは1950年代になってからである。中・下流域は冬季には北東貿易風の影響で著しく乾燥するが,夏季には多量の雨が降る。…

【相観】より

…主として植物群落の優占種の生活形によって決められ,植物群落の分類にも用いられる。19世紀初頭,植物地理学者のA.vonフンボルトにより最初に提唱され,そこでは,ヤシ形,バナナ形,サボテン形などの19の植生を特徴づける生活形区分が行われ,それによって特徴づけられる植生が群系formationと呼ばれた。その後,さまざまの生活形分類が試みられ,また群落優占種の生活形以外に,群落の密度,高さ,複雑さ,季節性,色合いなどが相観の決定にかかわっているため,相観の類別やそれに基づく群系分類の統一的体系は現在でも確立していない。…

【地理学】より

…このほか,ビュアシュP.Buache(1700‐73)やガッテラーJ.C.Gatterer(1727‐99)による自然地理的地域区分の提唱,ビュシングA.F.Büsching(1724‐93)の世界地誌,J.G.vonヘルダーの歴史哲学的著書などは,それぞれ近代地理学の成立に影響を与えた。 19世紀の前半は,A.vonフンボルトとK.リッターによって代表される近代地理学の草創期である。フンボルトは,熱帯アメリカにおいて科学的な野外調査の模範を示し,自然現象の専門的観測調査の成果を総合して,生きた自然世界の全体像を把握しようと努め,ライフワーク《コスモス》を著した。…

【チンボラソ[山]】より

…雪線高度は約4800m。1802年A.フンボルトによって科学的調査と登山が試みられた。80年にはイギリスのE.ウィンパーが山頂に達している。…

【天然記念物】より

…とくに,その国土または郷土だけにみられる動物,植物,地形地質やその集合体,あるいはその存在や生息の領域などのうち,その地域の特徴となって科学的,景観的,歴史的に価値が高いと認められ,その保存,保護を国や自治体から指定されたもの。 天然記念物ということばを初めて用いたのはA.vonフンボルトであるという。フンボルトは1799年から1804年にかけて赤道アメリカの各地を探検して歩いた。…

【肥料】より

…いわゆる販売肥料の普及である。19世紀初頭の1802年ころにはA.vonフンボルトによって,南アメリカのペルーで多量の海鳥糞の堆積物が発見され,ペルー・グアノとして輸入され広く販売されるようになった。30年ころからは,そのころチリで発見されたチリ硝石の販売,使用が行われている。…

【フォルスター】より

…その影響は近代地理学の成立期にとくに目だつ。A.vonフンボルトは,90年,マインツからオランダ,イギリスへ旅行したゲオルクに同行して感銘をうけた。ゲオルクの《ニーダーラインの展望》をはじめ自然的世界誌ともいうべき諸著は,フンボルトの《コスモス》の先蹤となる。…

【ボリーバル】より

…03年再びマドリードに行き,そこからさらにパリを訪れた彼は,ナポレオンが皇帝になったのを見て革命の理念を裏切ったものとして強い幻滅を感じた。パリで当時中南米の旅行から帰ったA.vonフンボルトに会い,イスパノ・アメリカ植民地の独立の機が熟していると伝えられた。その後イタリアの各地を訪れてローマに行き,そこでイスパノ・アメリカの独立に身をささげる決意をして07年にカラカスに戻った。…

【プロイセン】より

…これらの改革は,あくまで君主制の枠内で,諸大臣の責任に基づいて行われた〈上からの革命〉であったが,これによって旧来の身分制度が原理的に否定され,経済の自由化への道が開かれたことの意義は大きい。またそれと並んで行われたシャルンホルストらの軍制改革,K.W.vonフンボルトによる教育改革も,近代的な国民意識の育成を促すこととなった。ナポレオンに対する解放戦争でプロイセンが主役を演ずることができたのは,こうした改革のたまものである。…

※「フンボルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android