中世後期から神聖ローマ帝国の解体(1806)まで、ドイツ王国=神聖ローマ帝国を構成した地方国家。単に領邦Territorium(ドイツ語)ともよばれる。三十年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648)は、近世における神聖ローマ帝国(以下帝国と記す)の国制を決定したものであるが、それによれば帝国は300余り(この数は時代によって変動がある)の領邦国家と多数の帝国都市とによって構成され、各構成員は、外交権を含めてほぼ近代的国家主権に匹敵する自立的な権利をもつことが承認された。以後、帝国は多数の主権国家の連合体にすぎなくなったわけであるが、このような体制はいわば領邦国家の完成形態で、長い歴史的過程を経て形成されたものである。
[平城照介]
もともと中世のドイツ国家は、いくつかの部族の合成体として出発したものであり、領邦国家の分立への傾向(この傾向がドイツ分邦主義(パルテイキュラリスムス)とよばれる)をもっていたが、ザクセン朝、初期ザリエル朝の強力な王権は、種々の手段によりこの傾向を押さえてきた。それが表面化したのは聖職叙任権闘争で、この内乱期に聖俗の有力領主は、一円的な支配領域(terra、後の領邦)の形成に努めた。領国領主(dominus terrae、後の領邦君主)ということばはこの時代から用いられ始めるが、彼らが実力でつくりあげた権力が公的に承認されるに至ったのは、フリードリヒ2世の発布した二つの諸侯法、すなわち「聖界諸侯との協約」(1220)と「世俗諸侯の利益のための取決め」(1231/32)においてである。シチリアを中心にイタリア経営に専心していたフリードリヒ2世は、ドイツ国内の統治をゆだねていた息子ハインリヒ7世(ドイツ国王)と諸侯間の紛争を解決するため、両諸侯法で大幅な譲歩を行い、諸侯dominus terraeに関税徴収権、貨幣鋳造権、築城権、裁判高権(諸侯領内の領主たちのもつ裁判権に対する上級審としての機能)等、本来リガリア(国王の特権)に属する諸権利を認めた。これにより将来、領邦主権Landeshoheitに発展する君主権の基礎が置かれ、ホーエンシュタウフェン朝の滅亡とそれに続く大空位時代(1256~73)に領邦君主権はいっそう強化され、ハプスブルク家のルドルフ1世は、失われたリガリアの回収に努めたが、諸侯の選挙により王権が有力家門の間を転々と移動するという政情(いわゆる跳躍選挙時代)が、その政策の貫徹を妨げ、ルドルフ1世が有力諸侯に「不上訴特権」(諸侯の裁判権に不服でも、国王裁判所への上訴を禁止する特権)を与えたことも、諸侯の裁判高権を完成させる結果となった。7人の選帝侯による皇帝選挙の制度を定めたカール4世の金印勅書発布(1348)も、他方では選帝侯をはじめ聖俗の有力諸侯のもつ大幅な特権を再確認し、領邦主権確立への道を開いた。その後宗教改革時代には、アウクスブルクの和議(1555)により「支配者の信仰が領内を支配する」との原則が認められ、新教派諸侯の領邦では、君主は領内の教会に対する統制権をも獲得して(領邦教会制の成立)、ウェストファリア条約で完成する領邦国家体制への道を邁進(まいしん)することになる。
[平城照介]
領邦国家の数には時代によって変動があり、その大きさもまちまちであった。ホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセン、ハプスブルク家のオーストリア、ウィッテルスバッハ家のバイエルン等をはじめいくつかの世俗大諸侯領、ケルン、マインツ、トリールの三大司教領やウュルツブルク司教領のような若干の聖界大諸侯領を除けば、大部分の領邦は、領土の大きさからいっても、統治機構の面からみても、国家という名に値しない、家産的な小国家にすぎなかった。一般に近世前期のヨーロッパ諸国家は等族制(=身分制)的国制をとっていたが、ドイツの大領邦国家においても事情は同じであり、領邦の内部は君主の直轄領(カンマー)と等族の所領に分かれていた。等族と領邦君主とはもともと封建的主従関係で結ばれていたが、等族制国家の段階になると、等族相互間の横の結合が強まり、領邦議会(身分制議会)に結集して、君主と対抗する傾向が顕著になった。そこで争われた中心的争点は、課税をめぐる問題であり、君主は領邦議会の承認なしに新しく課税することはできないという原則が形成された。そのほか君主の地位の相続や結婚等、さらに戦争や外交問題、法の改廃等の政治上の重要事項も、領邦議会の審議が必要とされた。近世後期になると、プロイセンやオーストリアなどのいくつかの大領邦で、等族の諸権利、とくに所領内の領民に対する支配権を空洞化し、官僚制的統治組織を領邦の全領土に浸透させようとする努力が成功して、領邦君主の絶対主義的支配が確立する。とくにフリードリヒ大王治下のプロイセンは、啓蒙(けいもう)的絶対主義国家の典型とされる。
[平城照介]
ふつう13世紀ごろ以後,神聖ローマ帝国,もしくはドイツ王国を構成する部分国家的な諸侯領(ラント),およびそれに準ずる帝国都市をさす。テリトリウムTerritoriumとも呼ばれる。したがって神聖ローマ帝国が解体する1806年までのそれらについて用いられるが,71年のドイツ統一期までのドイツ諸邦について用いられることもある。しかし神聖ローマ帝国ないしはドイツ王国を構成しているか否かは,領邦国家という概念の絶対的条件ではなく,皇帝権または王権からの自立度が強く一円的な支配領域を形成する諸侯領は領邦国家といってよく,たとえばドイツ騎士修道会領も領邦国家と呼ばれる。
ドイツで領邦国家ないし領邦君主に相当する語が初めて用いられたのは,皇帝フリードリヒ2世が聖俗諸侯に与えた2法(聖職諸侯1220年,世俗諸侯1231か32年)においてのことで,この2諸侯法はドミヌス・テラエdominus terraeすなわち領邦君主(ランデスヘル)に関税徴収権,鋳貨権,築城権,裁判権などの帝国の重要なレガーリエン(国王大権)を承認している。しかしこれらの諸権利はこの2法によって初めて諸侯に与えられたのではなく,2法は既成事実を承認したものにすぎなかった。このことからも,諸侯による諸権利の獲得,したがって領邦支配権(ランデスヘルシャフト)の形成が長期にわたる歴史的発展の結果であることが知られるが,諸侯領が領邦国家といいうる形の支配体制をととのえる画期が,大空位時代(1256-73)を含む13世紀であったことも,確かなことである。領邦国家の皇帝に対する自立度の強化と領内支配は中世末期にいっそう進んだが,領邦国家が独立国家に近い権利を正式に承認されたのは,1648年のウェストファリア条約においてのことであった。この時期の領邦国家の数はおよそ300にも達したが,しかしそれらの中で国家と呼びうるほどの領域と制度をもっていたのは,少数の大諸侯領だけで,他は家産的侏儒国家にすぎなかった。
→ラント
執筆者:中村 賢二郎
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13世紀以降1871年の統一まで神聖ローマ帝国ないしドイツ連邦を形成した地方国家。封建国家が絶対主義国家へ発展する際,全ドイツの国家的統一が挫折し,国家形成が地方国家ごとに行われたドイツ特有の現象で,ウェストファリア条約により国際的にも国家的存在としての承認を得た。領邦君主は皇帝権から独立した一国の王で,これに領邦を代表するものとして貴族,聖職者,都市からなる領邦議会が対立していた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…宗教改革を遂行した北東ドイツとローマ・カトリックにとどまった西南ドイツとの間には以後大きな溝がのこり,今日に至っている点が無視しえないところである。【阿部 謹也】
[宗教改革をとりこんだ領邦国家]
ルターの宗教改革は,本来純粋に宗教上の問題であるはずであった。しかしこの世における教会制度の改革は世俗の権力と深くかかわり,しかもドイツにおいては,世俗権力が皇帝の下に一元化されてはいないという特殊な事情があった。…
※「領邦国家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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