ブットー
Zulfikār Alī Bhuttō
生没年:1928-79
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ブットー
Bhutto, Benazir
[生]1953.6.21. カラチ
[没]2007.12.27. ラワルピンディー
パキスタンの政治家。現代イスラム圏で初の女性首相を務めた。ズルフィカール・アリー・ブットー元首相の娘で,1973年ハーバード大学,1977年にオックスフォード大学で学士号を取得。1979年,父がクーデターで失脚後に処刑され,父の率いたパキスタン人民党 PPPの党首となる。ハク政権下の 1979~84年に何度も自宅軟禁に処され,1984~86年イギリスに亡命。1988~90年,1993~96年首相を務めたが,2度とも汚職疑惑で解任された。1999年実業家で上院議員の夫,アシフ・アリー・ザルダリとともに汚職で有罪判決を受けたが,2001年最高裁判所がこれを覆した。2007年10月,ペルベズ・ムシャラフ大統領の恩赦により 8年間の亡命生活を終えてドバイから帰国。帰国直後のパレードの車列をねらった自爆テロでは危うく難を逃れたが,選挙集会中に暗殺された。
ブットー
Bhutto, Zulfikar Ali
[生]1928.1.5. ラルカナ
[没]1979.4.4. ラワルピンジー
パキスタンの政治家。カリフォルニア大学バークリー校,オックスフォード大学修士課程卒業。 1958年 M.アユーブ・カーン政権に商相として入閣,敏腕を発揮し,1960年代初めに対中国関係の改善に尽力。 63年外相となったが,タシケント宣言に反対して 66年6月辞任。「インド=パキスタン千年戦争論」を提唱。伝統文化に立脚した社会主義を標榜し,67年 11月カラチで人民党を結成。第3次印パ戦争後の 71年 12月 20日大統領に就任。 72年7月対インド和平協定に調印。 73年8月新憲法を制定して首相制を復活,みずから首相に就任,政権を固めた。 77年3月の総選挙で大勝したが,野党9党のパキスタン国民連合が選挙の不正を唱えて大規模な反政府デモを続けたため,同年7月軍の無血クーデターで失脚,投獄された。 78年3月政敵暗殺その他の罪で死刑を宣告され,79年4月処刑された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ブットー(ベナージル)
Benazir Bhutto
1953~2007
パキスタンの政治家。Z.A.ブットー首相の娘。1979年に父が処刑された後,民主化運動に参加。88年の選挙でパキスタン人民党を率いて勝利し首相に就任したが,90年に大統領により解任。93年に再び首相に就任するが,96年に解任される。首相在任中は軍の動きを抑えようとしたが果たせず,また政権の腐敗にも悩まされ続けた。
ブットー(ズルフィカール・アリ)
Zulfikar Ali Bhutto
1928~79
パキスタンの政治家。1958年に軍事政権下で外相となり,67年にはパキスタン人民党を創設,71年に大統領に就任。73年の新憲法で首相に就任。社会主義政策などが失敗し,77年のクーデタで失脚。79年に処刑。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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ブットー
パキスタンの政治家。シンド州の大地主の出身。1967年にパキスタン人民党(PPP)を結成。大統領(1971年―1973年),首相(1973年―1977年)を歴任。文民統制,主要産業の国有化,土地改革などを打ち出したが,軍や資本家層の反発を招いて1977年のクーデタで失脚。1979年,処刑された。長女ベーナジール・ブットーは,パキスタン首相(1988年―1990年,1993年―1996年)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内のブットーの言及
【パキスタン】より
…パキスタンは建国以来最も深刻な国家的危機に直面した。 71年12月にヤヒヤー辞任をうけ新大統領となったパキスタン人民党(PPP)の[Z.A.ブットー]は,〈東〉なきパキスタンの復興に全力をあげた。ブットー路線は,民間企業国有化などの〈社会主義化〉と〈民主主義〉を強調した。…
※「ブットー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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