改訂新版 世界大百科事典 「土地改革」の意味・わかりやすい解説
土地改革 (とちかいかく)
革命と反革命を含む社会変動過程で旧土地制度の廃止や変更を目ざして行われる新政権の政策およびその実施過程をいう。それは,世界史的段階と国際的状況,旧土地制度と当面する変革課題,新政権の階級的背景や力量によって多様である。とくに重要なのは資本主義への移行過程における土地改革であり,その構造は以後の発展過程を規定する基本要因となる。ここではまず20世紀初頭までの西欧およびロシアにおける土地改革を概観し(とくに,先行する土地改革が後発の他地域の改革に与える影響に留意する),ついで第2次大戦後の中国の土地改革について記述する。なお,日本については〈農地改革〉,東欧諸国については各国名の項目,発展途上地域については〈ラテン・アメリカ〉などの項目を参照されたい。
イギリス,フランス,ドイツ
イギリス・ピューリタン革命の土地改革
17世紀中葉に,絶対王政を廃絶した勢力の議会的重商主義といわれる諸政策の一環としてなされた。15世紀以来の賦役の金納化,商人的新地主層の進出,独立自営農民の成立,共同体の解体傾向などによって,イギリスの農奴制は事実上崩れていたが,この線を延ばして近代的大土地所有と資本家的大借地農の形成をもたらす政策がとられた。すなわち新政権は,(1)領主に対する国王の封建的後見を断ち切ったことによって,領主地についての領主の近代的権利=私有権を確認し,(2)借地権強化で上層借地農を助けることによって結果的に中・下層農の封建的土地保有権を弱め,これを自然消滅に追い込み,(3)国王や王党派貴族の領地を没収・売却して富裕な商人や新地主の私有地を増大させ,(4)私有権に基づく〈囲込み(エンクロージャー)〉自由化(1656年の囲込み規制法否決)により領主も含む農村有力者層中心の協議分割方式での共有地解消を進めた。革命の途中で,レベラーズは,農民の土地保有権強化,没収地の細分売却,共有地の平等分割の方針((2)(3)(4)と逆)を提起し,また,ディガーズは貧民による荒地の共同耕作を試みたが,いずれもクロムウェルの勢力によって抑圧された。
フランス革命の土地改革
イギリス資本主義は,18世紀中葉に国際的覇権争いでフランスを劣勢に追い込むまでに発展し,この危機のなかでフランス革命が起こる。ここでは16世紀以降商人の〈市民的土地所有〉が発生し,その零細小作への貸付けによって領主制とは異質の〈寄生地主制〉も展開していた。北部を除けば大借地農経営は未発達で,封建制の枠内での農民の土地保有権が強化されていたせいもあり,農民層分解は緩慢であった。そこで革命直前には,領主の共同地侵害に抗して共同体的権利を防衛しようとする運動もみられ,これが封建地代支払拒否とならんで反領主運動の契機となりうるような構造があった。イギリスと異なりフランス革命では,このような農民革命が重要な柱の一つであった。
1793年のフランス革命絶頂期に至る土地改革においては,(1)人格的拘束も封建地代徴収権も含むいっさいの領主権の無償廃止,(2)農民の土地私有権の確認(亡命しなかった元領主の土地所有や〈市民的土地所有〉とも同権とされた),(3)国有土地財産の売却,(4)元領主を除く全共同体住民による共同地分割の自由化(ただし,あまり実行されず)などが行われた。こうして領主制を打破した農民革命ではあったが,その成果は主として富裕農と市民地主に吸収され,〈寄生地主制〉は残った。他方,共同体観念で私的所有権否定を志向し革命の先端をいくバブーフ主義は,1796年に挫折した。
プロイセンのシュタイン=ハルデンベルクの土地改革
東部ドイツでは,16世紀以降穀物輸出増大の波に乗った領主たちが,強力な領主裁判権・警察権を掌握し賦役による直営農場を拡大しつつあった。国王は,フランス革命の影響を防ぎ危機を乗り切るためイェーナでナポレオンに敗れた直後,1807年10月勅令を発した。これに基づき宰相シュタインらが制定した1811年,16年,21年の四つの法令の趣旨は,フランス革命のものとは対照的で,(1)従来の領主的土地所有権の確認とその私有権への転化,(2)農民に対する領主の人格的拘束の廃止,(3)土地関係の調整を受ける農民資格の狭い限定(最初は畜耕賦役,自立経営の上層農のみ),(4)原則として領主に従来の農民保有地の半分ないし3分の1を割譲することによる封建地代支払義務の償却(のちに貨幣による償却も容認),(5)下層農を排除しての共同地分割,(6)村落内農民地の大規模な再配分と団地化,(7)強力な官僚制的実施機関の活動,と要約できる。さらに1848年の三月革命の影響のもとで1850年法が制定され,国立地代銀行による農民の償却の肩代りという新方式(農民は肩代り分の債務を銀行に年賦で返済)が実施されて,50年代に土地改革はようやく完了した。この間に土地なしで解放された多くの下層農は,前領主たるユンカーの資本主義的地主経営に安く雇われる労働力となっていった。
ロシア
農民運動が高まるなかクリミア戦争での敗北によってツァーリは農奴主国家体制の改造を余儀なくされるが,〈農奴解放宣言〉(1861)をもって始まるいわゆるロシア農民改革の場合,プロイセンに似た点も多い(農奴解放)。さらに,西欧資本主義諸国の労働運動や1848年革命がロシア支配階級に与えた衝撃は大きく,農民をプロレタリアに転化させまいとする意図が加わった。
農奴解放を上記プロイセンの場合と比べると,(1)(2)の点は基本的に同じである。(4)の点は原則として貨幣による償却であるが領主の〈土地切取り〉も広く行われた。(7)の点ではロシアでは領主・農民間の自由協定を旨としたので事実上地主に有利に進められた。(5)(6)のようなことはこの時点では行われず,むしろ農民共同体は維持・強化された。ロシアではさらに,〈農民は償却金=買戻金を共同体の連帯責任で支払うべきであり,土地は共同体の土地として買い戻すのであって農民の私的所有となるのではない〉とされた。しかも,プロイセン1850年法に似て,国庫が農民共同体に代わって地主に債券交付の形で買戻金の大部分を一括払いし,農民(共同体)は49年年賦で利子とともに国庫に債務返済する方式が,全面的に採用された。これら2点はロシアの場合の最大の特徴であって,国家財政の見地からも,ロシア的な〈資本の本源的蓄積〉の役割を果たすこととなった。
この改革で,たしかに農民は共同体につなぎ止められ,純プロレタリアに転化し難くされたが,買戻金負担は重く,おりからの〈世界的農業大不況〉のもとで多数の農民は半農半プロレタリア的な〈出稼ぎ者〉として農村と都市の間を往復した。この窮境を利用したロシアの地主は,高地代=低労働報酬を農民に強いる〈オトラボトカ〉制を広めた。これは賦役制の復活ではないが,プロイセンのユンカー経営には生産力の点で及ばないもので,弱い地主は土地抵当金融を通じて銀行資本の支配下におちていった。
1905年革命とストルイピン改革
1905年革命は,直接には〈オトラボトカ〉制に対決する農民革命を重要な柱として展開した。すなわち,共同体農民は〈全村取決め〉をもって地主に低地代=高労働報酬を要求し,それを基礎にして農民派議員は国政レベルで地主地無償没収,全人民的土地所有を要求した。これより前,ロシアでは,ディガーズ運動やバブーフ主義に直接つながったものではないが,それと類似の共同体社会主義的なナロードニキ運動が起こっていた。1905年農民運動は,その流れをくむ半農半プロレタリア的な農村青年たちに深く支えられた。
革命鎮圧と最初の国会解散ののち06年11月勅令に始まるストルイピン土地改革は,農民革命に対する反革命であった。すなわち,地主の土地にはまったく触れず,ただプロイセンの1821年〈共同地分割規制令〉に似てほぼ上記の(5)(6)に相当する,農民間での共同地分割,住居移転をともなう団地(フートル)またはともなわない団地(オトルプ)の形成,シベリアへの移民,農民の土地購入に対する金融助成,を進めた。そして革命の拠点となった共同体を解体し,富農を分離して革命の防波堤にしようとした。首相ストルイピンの強行策にもかかわらず,農民は多く共同体にとどまり,地主地を求め続けた。
二月革命から十月革命へ
1917年二月革命でツァーリ権力が崩壊すると,農民運動は復活し地主地占拠も続発し,フートルとオトルプは改革前の状態に押し戻された。夏のうちに全ロシア農民同盟の手によってまとめられていた〈農民の指令〉は,十月革命政権樹立直後の〈土地布告〉の直接の基礎となった。布告は,全地主地無償没収,全土地国有化,郷(ボーロスチ)土地委員会による管理,農民的土地利用の自由を宣言した。地主地無償没収は,資本主義を廃絶する十月革命を前提としてはじめて実現した。その理由は,地主地の大部分が銀行資本の支配下に入っていた状況と,〈オトラボトカ〉制と資本主義の密接な結びつきの2点にある。布告に基づく土地改革は,18年を中心に農民自身によって実施された。それは半世紀にわたる農民運動の結論であった。
ロシア革命の影響
20世紀初頭以後の資本主義世界体制における数多くの現代的土地改革は,多かれ少なかれロシア革命の影響を二様に受けている。つまり,第1次大戦後の東欧諸国の土地改革は,その影響を防ごうとする反革命タイプであり,それに対しメキシコ,ボリビア,第2次大戦後の東欧,中国,キューバの土地改革は,農民運動に基づき地主地没収を目ざすという意味で(レーニン主義的意味でではなく),ロシア革命タイプである。以上のように,一連のロシア土地改革は,世界史的に見て近代的土地改革から現代的土地改革に至る転換を媒介する位置にある。
執筆者:日南田 静真
中国
中国では,中国共産党の指導下に,農村の封建的土地所有制を廃絶して農民的土地所有制を実現した反封建の革命運動を〈土地改革〉という。十年内戦期(1927-37)には土地革命(土地革命戦争)といい,新中国成立の前後(1946-52)には土地改革と称した。旧中国では,農村人口の10%に満たない地主と富農が全耕地の70~80%を所有するのに対し,人口の90%を占める貧農,雇農,中農はわずか20~30%の耕地しか所有しておらず,農民は高率小作料を納め,高利貸に縛られ,苛捐雑税を負っていた。この封建的,半封建的な地主土地所有制こそ搾取と貧困の基盤であり,経済と民主主義の発展を阻害する根源であって,〈耕す者に土地を(耕者有其田)〉分け,土地問題を解決することが中国革命の主要な課題であった。
五四指示
抗日戦争後も中国共産党は,平和統一の立場から引き続き減租減息(小作料と借金利子の引下げ)を進めていたが,国民党との内戦の危機が高まるなかで,農民たちは漢奸と悪覇地主の罪業を清算する運動を繰り広げ,みずからその土地財産を没収し始めた。そこで中国共産党は,1946年5月4日〈清算,減租および土地問題に関する指示〉を発し,減租減息政策から土地没収政策への転換を宣言する。これとともに各解放区で土地改革が展開されるが,五四指示は,まだ統一戦線の必要から一般地主にはかなりの配慮を払い,富農の土地は変動させないなど,不徹底な性格をもった。
中国土地法大綱
国共内戦の全面拡大,中国共産党側の相対的劣勢のうちに,中国共産党は47年9月〈全国土地会議〉を開催,10月10日に土地法大綱を公布して,貧農路線による徹底した地主打倒と絶対平等の土地分配を打ち出した。すなわち郷村中の地主所有地および共有地をすべて没収し,他の土地と併せ老幼男女の別なく全人口に応じて平等に分配する。没収対象は生産手段のほか家具,衣類,金銀などの〈浮財〉にまで及び,富農の余分な土地財産も徴収された。こうして農民の積極的な支援が得られ全国解放が勝ち取られたが,中農利益の侵害,農村商工業の破壊,むやみな殴打・殺害などの左翼偏向も生じた。
土地改革法
中華人民共和国の成立および全国規模での経済の回復発展を課題とする政治経済情勢を背景に,中央人民政府は50年6月30日に土地改革法を公布,残る農業人口2億6400万余を擁する新解放区で土地改革を実施した。したがって不必要な混乱を避け農業生産の増大を図る目的から,没収対象は地主の土地,役畜,農具,余分の食糧・家屋に限られ,また富農の自作地および雇用労働による耕作地には手をつけず,いわゆる富農保護政策がとられた。さらに地主,富農の経営する商工業は保護され,小地主,中農の利益にも配慮が加えられた。
この土地改革は,貧農,雇農に依拠し,中農と団結して,富農に制限を加え,地主を打倒する階級路線を貫き,大衆運動として実行された。つまり〈土地改革委員会〉(県人民政府以上に設置)の指導する〈土地改革工作隊〉が農村に入り,農民と生活をともにして〈農民協会〉を組織する。この農民自身の組織が,地主から受けた苦しみを農民ひとりひとりが公衆に訴える〈訴苦大会〉を開き,農民を〈翻身(フアンシエン)(圧迫をはねのけ立ち上がる)〉させて土地改革にかかるのである。没収地の分配は,郷を単位として全人口に応じ,元の耕作地を基礎に〈抽多補少,抽肥補瘦(土地の多少,肥瘦を調整して均等化する)〉の原則に基づいて行い,地主も同等の土地配分をうけた。〈人民法庭〉が農村を巡回して悪覇地主を裁判し,地主側の武力妨害に民兵を組織して対抗したことも特記される。52年末には,少数民族地区を除く全中国で土地改革は完了し,3億余の農民が約4700万ha(当時の総耕地の約43%)の土地と多数の生産用具を手中にし,年々約3500万t(当時の食糧生産の約20%)の小作料負担から免れることになった。こうして農民の労働意欲は高まり,農業生産は急速に回復して,52年にはほぼ戦前の最高水準に達している。
土地改革のコラム・用語解説
【旧中国農村の階級区分】
- 地主
- 多くの土地をもち,自分では労働せず,おもに小作料の取得により農民を搾取する。
- 富農
- 土地と良い生産用具をもち,自分でも労働するが,おもに雇用労働により恒常的に搾取する。
- 中農
- 土地と生産用具をもち,生活の源泉は自分の労働により,他人を搾取しない。一部の富裕中農は若干搾取するが恒常的でない。
- 貧農
- わずかの土地と不完全な生産用具をもち,小作料,金利,一部雇用労働による搾取をうける。
- 雇農
- 生産手段をいっさいもたず,労働力を売る。
執筆者:川村 嘉夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報