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旧東・西ベルリンの境界にある門で、1945~90年には東西ドイツ分裂の象徴であった。パリの凱旋(がいせん)門にも比せられる。ベルリン第1区ミッテ(中央)区西端にある。1788~91年にK・G・ラングハンスによって古典的様式で建築され、門上には当時の名彫刻家シャドーの手になる「4頭立ての古代ローマ戦車を駆る女神」の像を頂いている。第二次世界大戦の戦災を受けたため、1958年にこの女神の像は銅で新たに鋳造された。
[佐々木博]
… 18世紀末から19世紀初めにかけベルリンは,科学アカデミー(1700設立)の会員にA.vonフンボルト,ゲーテ,フィヒテを迎え,しだいにフランス文化の影響を脱しつつあった。ドイツ古典主義の誕生を告げるといわれるブランデンブルク門が造られたのもこの時代(1791完成)である。1806年,ナポレオンはこのブランデンブルク門からベルリンに入り,11月21日,有名な大陸封鎖令を宣言,ベルリンは以後2年間にわたりフランス軍の占領下におかれた。…
※「ブランデンブルク門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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