日本大百科全書(ニッポニカ) 「神殿建築」の意味・わかりやすい解説
神殿建築
しんでんけんちく
神を祭るための建造物を神殿というが、キリスト教の聖堂(教会堂)、イスラム教のモスク、神道の神社、仏教の寺院、ユダヤ教のシナゴーグは一般に除かれる。普通、先史メソポタミア・エジプト、および古代ギリシア・ローマの神殿をさす。
[前田正明]
西アジア
紀元前3000年代にシュメール人がユーフラテス下流地域のウルク、ウルなどに建設したジッグラトの最上段に方形の神殿が建てられていた。初期の神殿は小規模な原始的な建物から出発し、徐々に規則的な構成の神殿建築を生んだ。現存する最古の神殿の遺構はウルクのジッグラトの「白い神殿」(前3000代)で、そのプランは縦十数メートル、横二十数メートルの長方形を形づくり、壁面の内外に控柱(ひかえばしら)を設けている。内部は、神像を安置する内陣と、これに付属するいくつかの小室からなり、厚い壁面には色彩豊かな土鋲(つちびょう)が打ち込まれて美しいモザイク模様を構成する。このような神殿の形式は、その後のメソポタミアの神殿の基本的な形式となった。続くバビロニアのイシュタル・キティトゥム神殿(前2000ころ)は内庭を囲む長方形の建物で、内外の壁面には厚い突出壁体が設けられている。門は不規則に配され、塔状立体で挟まれた形をなす。全般にこの時代の神殿建築は一段とモニュメンタルとなり、城郭ないし砦(とりで)の性格を備えていた。しかしアッシリアおよび新バビロニア時代になると、建築の中心は神殿から宮殿に移り、神殿建築は先のプランを踏襲し、しだいに小規模なものとなった。
[前田正明]
エジプト
王朝以前の原初の神殿については、遺構がないため詳しいプランは不明であるが、おそらく一般の住居と同じ形式の小屋のような建物であったと推察される。やがて宗教が整えられ、建築技術が進歩するにしたがって、石造の神殿建築も徐々にその形式を備えてきた。第5王朝のネ・ウセル・ラー王の太陽神殿は、太陽崇拝の象徴としての太いオベリスクを基壇の上に建て、その前に祭壇を設け、周囲を壁で囲み、長方形の中庭に面して多くの小室が並ぶ。
新王朝時代に入ると、各地に大規模な神殿、葬祭殿が造営される。そのもっとも代表的遺構に、カルナックのアモン大神殿(前1570~前297)、ルクソールのアモン・ムト・コンス神殿、アブ・シンベルの岩窟(がんくつ)神殿(前1330ころ)、デル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭殿(前1500ころ)があるが、これらの神殿の形式はあらまし以下のとおりである。すなわち、神殿に向かう参道の両側にはスフィンクスが並び、神殿正面入口の前に1対(つい)のオベリスクが立ち、正面入口を挟んで塔門(ピュロン)が建つ。神殿の内部は、柱廊のある長方形の中庭、ついで列柱廊、さらにその奥に内陣部があり、聖舟室や神像を安置する小室が設けられている。建築はすべて平屋根で覆われ、奥に行くにつれて天井が低く開口部がすこし暗くなり、神秘感を高めている。
[前田正明]
ギリシア・ローマ
ギリシアの神殿の形式はミケーネ時代のメガロン形式を基本として徐々に発展したもので、切妻(きりづま)屋根をもつ長方形の神殿は、前室(プロナオス)、主神を安置する主室(ナオス)、その背後の後室(オピストドモス)からなる。神殿形式はその柱式(オーダー)によってドーリス様式、イオニア様式、コリント様式の3様式に分類される。
ローマの神殿建築はギリシア建築と先史のエトルリア建築の両者を踏襲発展させたもので、ここではギリシア建築の三柱式のほか、トスカナ式およびコンポジット(混合)式の五柱式が用いられている。ギリシアとローマの神殿の基本的な相違は、ギリシアの神殿がつねに東を正面として3段の低い基壇の上に建っているのに対し、ローマのそれはとくに決まった方向性がなく、正面には高い階段が設けられている。さらにローマ時代の建築を特徴づけるアーチ式工法の採用から、パンテオンのような壮大な円形神殿も造営された。
[前田正明]