デジタル大辞泉 「凱旋門」の意味・読み・例文・類語
がいせん‐もん【×凱旋門】
[補説]書名別項。→凱旋門
[類語]門・
古代ローマ共和政時代の戦勝を得た将軍がローマ市内で行う凱旋式の記念として建立した凱旋記念建造物の一形式。一般には独立したアーチ門の形態を有するが,後には三連アーチ門や四面門の形態をとる例も現れた。前2世紀初頭のステルティニウスやスキピオ(大)の凱旋門が最古の例であり,その後,《ファビウスの凱旋門》(前121創建,前57再建)によって基本的な形式,つまりアーチによる通路とその上部の碑文パネルを整えた。凱旋門の起源に関しては,大別するとヘレニズム起源説とローマ起源説があり,前者は前4世紀から造られるヘロン(半神殿)に由来するとし,後者は市門のモニュメント化とするが,定説はいまだない。共和政末期には,凱旋門は単に凱旋将軍のみが建造しうる記念建造物ではなくなり,有力貴族の顕彰や葬祭建造物としても建立されるようになる。アウグストゥスは前29年と前19年,二つの凱旋門をフォルム・ロマヌムに建立。前者はその基礎部遺構と一部の建築装飾が出土し,その存在が確認されている最古の例の一つである。この時代から,凱旋門は地方のローマ都市にも建立されるようになり,リミニ,ポーラ,スーサ,パビア(以上イタリア),サン・レミ,アルル,アビニョン(以上フランス)などに遺構がある。それらの大部分は,凱旋に関するものではないため記念門と称すべきであるが,通常,広義の凱旋門に加えられている。紀元81年ころ建立の《ティトゥスの凱旋門》(ローマ)は保存状態がよく,当時を代表する建築作品の一つである。また《トラヤヌスの凱旋門》(ベネベント)は,浮彫装飾が完全にのこっている。2世紀に入ると北アフリカのローマ都市でも多数の凱旋門が造られ,ティムガード,ドゥッガ,トリポリ,レプティス・マグナなどに現在もある。ローマの《セプティミウス・セウェルスの凱旋門》は三連アーチの最も完成した形式を示し,4世紀の《コンスタンティヌスの凱旋門》(ローマ)はそれに倣っている。フランス革命後ナポレオンがパリに建立した《エトアール凱旋門》は古代ローマのそれを手本としたものである。
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代ローマ人によって創始された戦勝祝賀のための記念建造物。ローマ式の半円形アーチがあけられ、ギリシア式の円柱で装われ、頂上にブロンズの彫像が設置されるのが通例であった。アーチは1個もしくは3個で、円柱はコリント式オーダーが普通であるが、ほかの彫像を設置するための壁龕(へきがん)が設けられる場合もある。凱旋門は一般に街路をまたぐように建てられるから、頂上に立つ皇帝像はアーチを通り抜ける行列の人々から仰ぎ見られる仕組みになっている。このアーチを通過する凱旋行列の例はローマにあるティトゥス帝凱旋門の浮彫りにみることができる。かつてのローマ帝国の版図内に現在も残っている凱旋門の数は125に達するといわれるが、ローマ市内にも前記のほか、セプティミウス・セウェルス帝、コンスタンティヌス大帝を記念する凱旋門が現存する。
18、19世紀に入ると、凱旋門は、都市のいわば焦点として都市計画に組み入れられ、ナポレオンのロシア・オーストリア連合軍に対する勝利(1805)を記念するパリのカルーセルの凱旋門は、古代ローマの形式を忠実に踏襲してルーブル宮のカルーセル広場に建てられた。また、ラングハンスによるベルリンのブランデンブルク門は、古代ローマの凱旋門のもつ重厚さと、ギリシア神殿の列柱にみられる明快さを調和させた傑作である。フランス陸軍の栄光をたたえるため、シャルグランの設計によって建立されたエトアール凱旋門は、パリの名所としてよく知られ、現在は無名戦士の墓を兼ねている。
[濱谷勝也]
ドイツの作家レマルクの長編小説。1946年刊。第二次世界大戦前夜、不安と絶望に翻弄(ほんろう)される亡命者の生きざまを描く。ドイツからパリに避難したラビックはナチスの圧制に対し復讐(ふくしゅう)をひそかに誓う外科医。彼の身辺には天涯孤独の女歌手、彼を慕う女性、さらに売春婦もいる。追われる身は四六時中ファシズムの足音に憎悪と恐怖を覚えながら、しょせん権力の前では無力でしかない。やがて大戦勃発(ぼっぱつ)、亡命者は追い詰められ、収容所に向かう警察のトラックに運び上げられる。このとき、かつてパリに逃れ、初めて見たとき巨大に映った凱旋門が未来を暗示するかのように、暗黒のなかに姿を没していた。
[古賀保夫]
『山西英一訳『凱旋門』(新潮文庫)』
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…カルバドスはこはく色で,独特の芳香があり,アルコール分40~45%,高級品には50%以上のものもある。日本では第2次世界大戦後,レマルクの小説《凱旋門》の影響で人気が高まった。ブランデー【大塚 謙一】。…
…ナチスにドイツ市民権を奪われ,アメリカ,スイスに居住,1947年アメリカ国籍を取得。社会批判的・反戦的な長編小説で知られ,他の主要作品は,《隣人を愛せ》(1941),パリに亡命したドイツ人医師の生活と運命を描いた《凱旋門》(1946),《愛する時と死する時》(1954)など。【渡辺 健】。…
…その後ナポレオン失脚により計画は大きく変わり,建築家も交代し,七月王政期の36年にようやく完成した。古代ローマの凱旋門を範としているが,正面に円柱がないのが特徴。高さ49.5mで,凱旋門では世界最大。…
… アウグストゥス以来の諸帝は最大の公共事業施工者として上下水道など衛生設備や円形競技場など娯楽施設の充実を目ざすとともに,中央広場に隣接して新たに広場を設け(アウグストゥス,ウェスパシアヌス,トラヤヌスら),首都景観の美化に努めた。神殿や図書館,戦勝記念円柱,凱旋門をめぐらしたこれらの広場は,その配置自体各皇帝の統治理念の反映であり,帝国の支配イデオロギー宣伝の舞台であった。皇帝による土木事業はこのほか,港湾(クラウディウス帝のローマ港,ネロのアンティウム港,トラヤヌスのケントゥムケラエ港など)や運河(ナイル川と紅海を結ぶもの。…
…ローマ人はオーダーをギリシア人と同じように建築の構造として使うこともあったが,アーチと組み合わせて装飾的に使うことも多かった。〈凱旋門のモティーフ〉と呼ばれるこの手法はローマ独特の建築表現として,後世の西欧の建築に繰り返し用いられた。
[コンクリート構造]
ローマ人はまたコンクリート構造を発明し発展させた。…
※「凱旋門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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