日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ブリティッシュ・スチール
ぶりてぃっしゅすちーる
British Steel plc
イギリスの鉄鋼メーカー。前身の国有企業BSC(ブリティッシュ・スチール・コーポレーション)の後継となった民間企業。1999年にオランダ最大手のホーゴーバンKoninklijke Hoogovensと合併して、コーラス・グループに名称変更した。さらにコーラス・グループは2007年、インドのタタ鉄鋼により買収され、2010年にタタ製鉄ヨーロッパと改称した。さらに2016年イギリスの投資ファンドがタタ製鉄のヨーロッパ条鋼事業を買収し、この新会社をブリティッシュ・スチールと新たに命名した。その後、トルコ企業への売却も図られたが、2019年中国の敬業集団に5000万ポンド(約70億円)で売却することに合意した。
[編集部]
ブリティッシュ・スチールの歴史
19世紀中葉に「世界の製鉄所」ともよばれていたイギリス鉄鋼業は、20世紀に入って長期低落傾向にあったが、1950年当時なお10以上の有力鉄鋼企業が存在した。それらの大部分を統合して、1951年最初の国有企業であるBSCが労働党政権下に設立された。しかし、政権が保守党にかわると、すぐさま民営化の方針が出され、1955年にBSCは民営化され、原則的に旧所有者に払い戻された。その後、労働党政権下の1967年にイギリス鉄鋼企業は鉄鋼法Iron and Steel Actに基づき再国有化され、主要14社がBSCに統合された。ところが、国際競争が熾烈(しれつ)化するなかでBSCは多額の赤字を抱え、また民営化を政策の基本とするサッチャー政権の下で、1988年に再民営化された。ただし、このときには分割民営化は行われず、そのままBSC自体が社名をブリティッシュ・スチールとして民間企業に移行した。このような紆余(うよ)曲折がイギリス鉄鋼業の歴史の特徴である。
[安部悦生]
合理化と民営化
国有企業時代すでに設備の近代化が推し進められていたが、1973年の南ウェールズ、シェフィールド、ティーズサイド、スカンソープ、スコットランドの5地域に製鉄所を集約統合する「10年発展戦略」は、十分な成果を収められなかった。国際競争の激化はBSCの合理化テンポを超えていたのである。1967年の国有化時に27万を数えた従業員もその後削減され、1970年代末までにその数は18万人に縮小していた。1980年には13週間にわたるストライキが行われたが、BSCはいっそうの人員整理を推し進め、1991年には5万人程度にまで減少した。
1980年のストライキ以後、BSCは大規模な工場の統廃合にも着手した。レイブンズクレイグRavenscraig(スコットランド)の製鉄所は近代化投資の典型とみられていたが閉鎖され、BSCは南ウェールズとティーズサイドの2か所に統合製鉄所をもつのみとなった。
1988年に民営化され公開株式会社となって以降は、こうした合理化に伴い比較的競争力をもった時期もあった。1990年代初頭には6億ポンド近い利益(税引前)をあげ、新日本製鉄(現、日本製鉄)や韓国のPOSCO(ポスコ)には及ばなかったものの、ブリティッシュ・スチールはヨーロッパ大陸やアメリカの鉄鋼企業よりも高い競争力を有していた。このころの売上高はおよそ60億ポンドに達し、売上げの53%は国内、47%が輸出によるものであった。生産量は鋼1200万トン、海外からの輸入を加えたイギリス国内市場におけるBSCの鋼材シェアは56%であった(1992年時点)。
[安部悦生]
国境を越えた合併
しかし、1990年代後半になると鉄鋼業の市場環境はますます厳しくなり、ヨーロッパでは大規模な鉄鋼企業の合併が進展した。販売組織や生産設備の合理化・効率化の追求がますます重要となったのである。そこで、イギリスの鉄鋼企業をほぼ統合していたブリティッシュ・スチールは、合併先を海外に求めることになり、1999年オランダのホーゴーバンと合併するに至った。
[安部悦生]
『安部悦生著『大英帝国の産業覇権――イギリス鉄鋼企業興亡史』(1993・有斐閣)』▽『Heidrun AbromeitBritish Steel ; An Industry between the State and the Private Sector(1986, St. Martin's Press, New York)』▽『G. F. Dudley, J. RichardsonPolitics and Steel in Britain, 1967-1988 ; The Life and Times of the British Steel Corporation(1990, Ashgate Publishing Company, Hampshire)』