ブルム(読み)ぶるむ(英語表記)Léon Blum

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルム」の意味・わかりやすい解説

ブルム
ぶるむ
Léon Blum
(1872―1950)

フランスの政治家、文学者。富裕なユダヤ商人の次男としてパリに生まれる。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に入学したが中退し、パリ大学で文学、法学を学んだ。20余年間参事院判事として法律家の生活を送る一方、文芸批評家として活躍し、女性の性的解放を是認した『結婚について』やスタンダール研究などを発表して話題をよんだ。ドレフュス事件に際してはドレフュス擁護派に加担し、そのなかで社会主義者ジョレス親交を結んだ。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)時にジョレスが暗殺されると、これを機に文学から離れて政治に身を投じ、大戦中は公益事業省官房長を務めた。1919年に47歳で初めて下院議員に出馬し当選。1920年の社共分裂に際しては右派の理論的支柱となり、新しい社会党の指導者となった。1930年代に反ファッショ人民戦線が成立し、1936年春の総選挙で左翼が勝利を収めると、第一党の党首として人民戦線内閣首相就任した。フランス史上最初の社会主義者の首相であり、最初のユダヤ人首相であった。組閣と前後して起こった労働者による未曽有(みぞう)の工場占拠の際、一斉賃上げを経営者代表に認めさせたほか、年2週間の有給休暇制、週40時間労働制などの社会立法議会で矢つぎばやに成立させ、「ブルム実験」、「フランス・ニューディール」とよばれた。しかし、不況克服に成功せず1年余りで退陣した。1938年にも1か月足らず首相を務めた。ビシー政権時代にはペタン政府により拘留され、ドイツ終戦を迎えた。戦後栄光に包まれて帰国し、短期間(1946~1947)首相を務めた。

[平瀬徹也]

『福永英二・新関嶽雄訳『結婚について』(1951・ダヴィッド社)』『吉田八重子訳『人間から人間へ――わが人民戦線の回想』(1975・人文書院)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブルム」の意味・わかりやすい解説

ブルム
Blum, Léon

[生]1872.4.9. パリ
[没]1950.3.30. ジュイアンジョザス
フランスの政治家。 1890年エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) 入学,94年パリ大学法科に移り,同大学卒業後,文芸・演劇批評家として活躍。 96年指導的な社会主義者 J.ジョレスと知合い,1902年社会党に入り,19年下院議員。 20年社会党が共産党と少数派の社会党に分裂後,29年社会党党首となった。 35年急進社会党,共産党などの反ファシズム勢力を結集して人民戦線を結成。 36~37年社会主義者,ユダヤ人として初めて人民戦線内閣の首相に就任し,週 40時間労働,軍需産業の国有化などの社会改革を行なったが,対外的にはスペイン戦争不干渉政策をとり不評を買った。 40年にはビシー政府に戦争責任者として逮捕され,45年アメリカ軍に救出されるまでドイツに抑留,その後 46~47年暫定内閣首相兼外相をつとめた。主著『人類の段階』A l'échelle humaine (1945) 。

ブルム
Blum, Robert

[生]1807.11.10. ケルン
[没]1848.11.9. ウィーン
ドイツの政治家。ライプチヒで劇場に勤め,やがて同市で自由主義運動の指導者となり,1848年の三月革命に際し,ザクセンの自由党を組織。次いで準備議会の副議長,さらにフランクフルト国民議会では,ザクセンから選出された左派の代表的議員として活躍。ウィーンの反革命に際し,同地におもむいて学生を主とする人民軍を指揮したが,ウィーン陥落後,軍法会議の判決により射殺された。

ブルム
Brum, Baltasar

[生]1883.6.18. サルト
[没]1933.3.31. モンテビデオ
ウルグアイの政治家。大統領 (在任 1919~23) 。法律学で学位を取り,一時法律家となったが,1913年以来情報相,外相,蔵相,内相などを経て,19年大統領に就任。汎アメリカ主義運動の推進者で,33年 G.テラ大統領の独裁権掌握に抗議して自殺。

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