モルトケ(読み)もるとけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モルトケ」の意味・わかりやすい解説

モルトケ
もるとけ

(1)Helmuth Karl Ferdinand, Graf von Moltke(1800―1891) ドイツの将軍大モルトケとよばれる。1822年デンマーク陸軍からプロイセン陸軍に移る。理論家として頭角を現し、1858年陸軍参謀総長に就任。産業革命に伴う鉄道、通信などの技術革新に注目。それらを取り入れた近代的な陸軍の編成とその戦略を考案し、対デンマーク戦争(1864)、プロイセン・オーストリア戦争(1866)、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)で赫々(かくかく)たる戦果をあげた。その功で1871年陸軍元帥。彼の声望参謀本部をドイツ陸軍の中枢たらしめた。(2)Helmuth von Moltke(1848―1916) 小モルトケ。(1)の甥(おい)。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)当時、ドイツ陸軍参謀総長。二正面作戦に失敗し、1914年9月、病気のため辞任した。

[木谷 勤]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モルトケ」の意味・わかりやすい解説

モルトケ
Moltke, Helmuth Karl Bernhard, Graf von

[生]1800.10.26. メクレンブルク,パルヒム
[没]1891.4.24. ベルリン
ドイツ,プロシアの軍人。近代ドイツ陸軍の父。第1次世界大戦当時のドイツ軍参謀総長モルトケ (小モルトケ) に対し,大モルトケと呼ばれる。コペンハーゲン陸軍幼年学校で教育を受けたのち,デンマーク軍に入隊したが,1822年プロシア軍に入隊。 35年中近東を視察旅行し,そのままトルコ軍顧問となってその再編,近代化に尽した。 39年帰国,再びプロシア軍に入り,55年フリードリヒ・ウィルヘルム (のちのフリードリヒ3世) の副官,58年参謀総長となり軍制改革を推進し,デンマーク戦争 (1864) ,プロシア=オーストリア戦争 (66) ,普仏戦争 (70~71) を指導,そのすぐれた戦略・戦術的才能を遺憾なく発揮した。彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令) は,その後近代化されたあらゆる軍隊が範とするにいたった。 88年退役。謙遜かつ寡黙で,「偉大な沈黙者」と呼ばれ,軍事問題でしばしばビスマルク衝突はしたが,常に政治を優先させた。 19世紀における最もすぐれた軍事指揮者の一人とされている。文筆家としても知られ,死後論文集および回想録』 Gesammelte Schriften und Denkwürdigkeiten (8巻,91~93) ,『書簡集』 Moltkes Briefe (2巻,1922) が刊行された。

モルトケ
Moltke, Helmuth Johannes Ludwig von

[生]1848.5.25. メクレンブルク,ゲルスドルフ
[没]1916.6.18. ベルリン
ドイツ,プロシアの軍人。叔父のモルトケ (大モルトケ) に対して,小モルトケと呼ばれる。 1870年プロシア軍に入り,82年大モルトケの副官,1903年主計総監。 06年 A.シュリーフェンの跡を継いでドイツ軍参謀総長となり第1次世界大戦開戦時のドイツ軍の戦略を指導。前任者シュリーフェンの立案になる,いわゆるシュリーフェン・プランを修正した彼の作戦は,フランスに対する敏速な勝利を得ることができず,14年マルヌ会戦に敗れて辞任した。皇帝ウィルヘルム2世の信任厚く,そのために過大な責任を負わされた悲劇の軍人と評されている。

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