日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペッリコ」の意味・わかりやすい解説
ペッリコ
ぺっりこ
Silvio Pellico
(1789―1854)
イタリアの文学者。愛国者として著名。ピエモンテのサルッツォに生まれる。リヨンでの勉学でフランス文化の教養を身につけたのちミラノに居を定め、フォスコロやモンティなどロマン主義の先駆けとなった一群の文学者たちと親交を結んだ。悲劇『フランチェスカ・ダ・リーミニ』を書き、1815年、その上演によって一躍名声を得た。当時のロンバルディア地方の情況を特徴づけていた文化的・政治的議論に加わり、19年10月にオーストリアの検閲によって廃刊になるまで、ロマン主義者たちの拠(よ)る有力雑誌『コンチリアトーレ』編集陣の中核となった。20年、カルボナリ(炭焼き党)党員となったが、わずか2か月後に逮捕され、死刑の宣告を受ける。のち懲役15年に減刑になったものの、ミラノからベネチアの牢獄(ろうごく)、さらにモラビア地方のブルノ近郊の要塞(ようさい)の牢にと9年間にわたって服役したその苦悩の体験を、32年公刊の『わが牢獄』に書き綴(つづ)った。30年に恩赦によりトリノへ帰ってからは、さる侯爵家の司書をしながら文筆に励み、54年の死までいかなる政治活動にも無縁に生きた。彼の名声は一に『わが牢獄』に結び付いており、物語のもつ起伏と諦念(ていねん)ともいえる敬虔(けいけん)な思索に満ちた同書は、イタリア・ロマン主義文学の情念の側面を代表する傑作と評価されている。
[古賀弘人]