フォスコロ(読み)ふぉすころ(英語表記)Ugo Foscolo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォスコロ」の意味・わかりやすい解説

フォスコロ
ふぉすころ
Ugo Foscolo
(1778―1827)

イタリアの前ロマン主義期を代表する詩人。1778年2月6日、ベネチア領だったイオニア諸島ザンテ島ザキントス島)でベネチア人の父親とギリシア人の母親の間に生まれ、父親の死後、92年にベネチアに移る。古典文化の素養を得、同市の文学界と接触するとともに、アルプスのかなたから流入したフランス革命の自由主義・共和主義思想に共鳴し、オーストリアからの解放のための戦いに挺身(ていしん)した。97年、彼の悲劇『ティエステ』が上演され好評を博した。同年、カンポ・フォルミオ条約ののち、やむなくベネチアを去りミラノに移る。ナポレオン軍に従ってイタリア各地を転戦大尉まで昇進する。ミラノ、フィレンツェを中心にボローニャジェノバと転々としながら、勉学と文芸活動、政治的責務の遂行、報われなかった恋、社交界への出入り等々、浮沈の激しい情熱的な日々を送った。

[古賀弘人]

波瀾の人生

1802年に詩『解放者ボナパルテ賛』を発表、また同年、政治と恋愛をめぐる自らの体験を要約し、心情を吐露した書簡体の小説『ヤーコポ・オルティスの最後の手紙』を刊行し、知識階級の青年層に圧倒的に迎えられた。ついで数々の名ソネットを含む『詩集』(1803)をまとめ、1807年には前年に一気に書き上げた傑作の長詩『墳墓Dei Sepolcriを上梓(じょうし)した。一時、パビーア大学で修辞学の教鞭(きょうべん)をとったが、革新思想ゆえそうそうに教壇から追われた。12年、結局未完に終わった頌歌(しょうか)『三美神』Le Grazie草稿に着手、またこのころ、悲劇『アイアーチェ』と『リッチャルダ』を上演したが、不評であった。ナポレオンが倒れてイタリア王国が失墜すると、14年、フォスコロは返り咲いたオーストリア権力への恭順を拒み、スイスへ亡命の途を選び、なおも追われてイギリスへ渡った。そしてロンドンでイタリア文学論の叙述とイタリア語学教師の労働に従ったが、27年9月10日、市郊外のターナム・グリーンで生涯を閉じた。

 人間として、詩人として、時代の壁を打ち破ろうと奮闘したフォスコロの、真摯(しんし)で堅忍不抜な生き方と清新な息吹に満ちたその文学は、マッツィーニらリソルジメント期の革新を志す人々によって模範として称揚され、1871年、彼の遺骸(いがい)はフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に移された。なお、フォスコロが批評家として斬新(ざんしん)で近代的な直観と判断を備えていたことは、今日『イタリア文学史』として集成されている彼の批評が証明している。

[古賀弘人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォスコロ」の意味・わかりやすい解説

フォスコロ
Foscolo, Ugo

[生]1778.2.6. ザンテ
[没]1827.9.10. ターナムグリーン
イタリアの詩人,小説家。アルフィエーリの強い影響のもとに,イタリアの自由と独立の願いを主題にした悲劇『ティエステ』 Tieste (1797) で文名を確立した。イタリア解放の希望をナポレオンに託した叙事詩『解放者ボナパルテ』A Bonaparte liberatore (97) を書き,その期待が裏切られると,ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に想を得たといわれる書簡体の長編小説『ヤコポ・オルティスの最後の手紙』 Ultime lettere di Jacopo Ortis (98執筆,1802刊) を著わした。その後,オーストリアとロシアの侵入に際してはみずから武器をとり,また数々の恋愛を繰返し,ナポレオンの没落後,スイス,イギリスに亡命,不遇のうちに死んだ。

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