モンティ(読み)もんてぃ(英語表記)Vincenzo Monti

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンティ」の意味・わかりやすい解説

モンティ
Monti, Mario

[生]1943.3.19. バレーゼ
イタリアの政治家,経済学者。首相(在任 2011~12)。銀行家の息子に生まれた。ミラノのボッコーニ大学で経済学と経営学を学び,1965年に学位を取得。その後,アメリカ合衆国のエール大学大学院で経済学者ジェームズ・トービンの指導のもとに研究を続けた。1970~79年にトリノ大学で教鞭をとり,1971年に母校ボッコーニ大学の金融理論・政策学の教授となる。1985~94年ボッコーニ大学の経済学研究所所長を務め,その間の 1989年に同大学学長に,1994年には総長に就任した。1970年代にイタリアの最大手銀行の顧問を務め,公式のマネー・サプライ統計が発表されていなかった当時,イタリアのマネー・サプライに関する独自の推計を公表して注目を集めた。1980年代に財務省の複数の委員会に名を連ね,1982~85年には「財政研究のためのヨーロッパ大学協会」SUERF(のちのヨーロッパ金融財政フォーラム)の会長を務めた。また,1978~94年に有力紙『コリエレ・デラ・セラ』に経済解説を連載するかたわら多数の企業の取締役を歴任した。1995年,シルビオ・ベルルスコーニ首相の指名を受けてヨーロッパ連合 EUのヨーロッパ委員会委員に就任し,域内市場,金融サービス,関税・課税政策を担当。2期目の 1999~2004年には競争政策を担当し,企業の合併規制問題や独占禁止案件などに関して現実的な姿勢を貫き評価を得た。委員の任期終了後,経済のグローバル化に重点的に取り組むシンクタンクブリューゲル」Bruegelの設立に参加した。2011年11月,イタリアの債務危機をきっかけにベルルスコーニ政権が求心力を失うと,経済学者としての実績を買われ,挙国一致内閣の首相最有力候補と目されるようになる。同 2011年11月9日,終身上院議員となり,ベルルスコーニ首相が辞表を提出した翌日の 11月13日,ジョルジョ・ナポリターノ大統領により首相に指名された。

モンティ
Monti, Eugenio

[生]1928.1.23. ドゥビアコ
[没]2003.12.1. ベルーノ
イタリアのボブスレー選手。優れた能力とスポーツマンシップで知られ,1957年から 1968年まで世界のボブスレー競技に君臨した。2人乗りと 4人乗りの双方を得意とし,世界選手権で 9回の優勝に輝いた。1956年のコルティナダンペッツォ・オリンピック冬季競技大会でオリンピック初出場を果たし,ボブスレー2人乗りで 2位に入った。1964年のインスブルック・オリンピック冬季競技大会には,パートナーのセルジオ・シオルパエスとともに世界チャンピオンとして出場し,イギリスチームと熾烈な戦いを繰り広げた。しかしイギリスチームのそりに不具合が生じると,モンティは自分たちのそりの部品を貸し与え,その結果イギリスチームが 1位となり,イタリアチームは 3位にとどまった。この行為がたたえられ,オリンピック史上初のフェアプレー賞が与えられた。1968年現役最後のシーズンは,グルノーブル・オリンピック冬季競技大会のボブスレー2人乗りの優勝で締めくくった。4人乗りでも活躍し,オリンピック冬季競技大会コルティナダンペッツォ大会で 2位,インスブルック大会で 3位,グルノーブル大会で 1位となった。なお 1960年のスコーバレー・オリンピック冬季競技大会は,時間と予算の都合でボブスレー会場が設営されなかったため,出場できなかった。

モンティ
Monti, Vincenzo

[生]1754.2.19. アルフォンシーネ
[没]1828.10.13. ミラノ
イタリアの詩人劇作家。同時代の作家フォスコロと並び,新古典派の代表的存在であった。ファエンツァの神学校やフェララの大学に学び,20歳頃から文学に専念。フランス革命の残虐性に激怒して,長詩『バスビーユに捧ぐ』 La Bassvilliana (1793) を書き,ナポレオンの英雄的行動に感激して『プロメテウス』 Prometeo (97) を献じた。当時の政情変転とともにフランスに亡命したり (99~1801) ,パビア大学で修辞学の教授をつとめる (02~04) など,波乱に富んだ生涯をおくった。最大の傑作はホメロスイリアス』の翻訳で,そのほか『アリストデモ』 Aristodemo (1796) ,『神話をめぐる訓戒』 Sermone sulla mitologia (1825) などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンティ」の意味・わかりやすい解説

モンティ
もんてぃ
Vincenzo Monti
(1754―1828)

イタリアの詩人。古都ラベンナに近い小村アルフォンシーネの裕福な家に生まれる。フェッラーラに出て医学生となるが、まもなく種種の行事に際してつくった機会詩で名を馳(は)せ、21歳のとき文芸アカデミー「アルカディア」に入会、1778年には勇躍ローマに上った。ローマでは、当時、啓蒙(けいもう)思想に対抗して装飾的な新古典主義の芸術・文化が流行していたが、彼はこの傾向を自分の詩法に取り入れていった。そして3年後の81年、教皇ピウス(6世)の甥(おい)の結婚に寄せた祝詩『宇宙の美』を成功させてこの甥の秘書に迎えられ、教皇の信任を得て、ローマ文壇の中心的存在として活躍した。この時期にはほかに、教皇の干拓事業を神話になぞらえて称(たた)えた『女神フェーローニア』(未完)、ローマで起きたフランス革命政府外交官の虐殺事件を題材にして共和革命を弾劾した『バスビルの死』(1793)などがある。

 しかし、1789年に始まったフランス革命の影響が96年のナポレオン遠征によって北イタリアにも及ぶと、モンティは一転して共和主義に接近し、翌97年、ひそかにローマを去り、矢つぎばやにジャコバン主義的な教皇庁非難の詩を発表したのち、フランス軍占領下のミラノに落ち着いた。新ローマ皇帝を自任するナポレオン支配のもとで、モンティの新古典主義的詩風は大いに好まれた。ナポレオンのドイツ遠征を歌った『黒森の吟遊詩人』(1806)をはじめとする皇帝賛美の詩を書き続ける一方、ギリシア叙事詩『イリアス』の翻訳を1810年に完成、出版した。これは仏訳からの重訳であるがむしろそのために、形式美としての詩を目ざす彼の詩才が最大限に発揮され、代表作とみなされる。15年、ナポレオンが没落してイタリアがオーストリアの勢力下に戻ると、モンティは新しい支配者を称賛して復古王政側についた。しかし文学の主流はロマン主義に移りつつあり、再度の政治的転向がロマン派の不信を招くなか、かつての名声は衰え、晩年は不遇であった。この時期の著作では、新古典主義の立場から詩における神話の必要性を説いた『神話について』(1825)が重要である。

[林 和宏]

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