フランスの政治家,銀行家。グルノーブルの大産業家の家に生まれ,リヨン,パリで教育を受けた後,1801年に兄アントアーヌと協力してパリに銀行を設立し,まず銀行家として成功を収めた。次いで17年に,パリ3区から下院議員に選出され,政界に入った。議会では立憲君主派に属し,財政通として頭角を現した。その後,次第に左派に転じ,自由派議員グループの指導者の一人としてルイ・フィリップの七月王政の成立に積極的な役割を果たした。30年にルイ・フィリップが王位につくとともに,ラフィット首相のもとで無任所大臣に迎えられ,翌31年にはラフィットに代わって首相兼内務大臣に就任した。
首相としてのペリエは,七月革命で混乱した経済活動の早期再開,そのための治安回復を優先的な政策課題とし,パリやリヨンの大規模な職人=労働者の反乱を武力で鎮圧した。また,イギリス流の議会政治の実現をめざし,国王の政治介入を拒み,ルイ・フィリップとも対立した。対外政策では,非介入を原則としながらも,ベルギーのオランダからの独立を援助し,32年に教皇庁にたいするオーストリアの影響力を牽制するために,イタリアのアンコナに派兵した。32年5月,パリで猛威をふるったコレラにかかって死んだ。
執筆者:権上 康男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの政治家。ペリエ銀行の頭取、フランス銀行の理事であったが、1817年に衆議院議員に選出されてから政界で活躍するようになった。復古王政期には自由主義的議員を集め率先して政府批判を行った。1830年の七月革命後抵抗党の領袖(りょうしゅう)としてルイ・フィリップ王政を支持し、1831年3月にラフィットにかわって内閣を組織した。外交面ではウィーン体制維持を唱えながら、ベルギーにフランス軍を派遣した。内政では秩序の回復を最優先させて推進するとともに、11月のリヨンの暴動を鎮圧した。翌1832年ペストの流行のなかパリ市立病院を訪れ、ペストに感染して死亡した。
[本池 立]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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