ロシアの作曲家で、化学者としても著名。貴族の私生児としてペテルブルグに生まれる。幼時からピアノやチェロをはじめさまざまな楽器に親しみ、9歳で作曲をした。1850~56年ペテルブルグ医科大学で主として化学を専攻する一方、室内楽を楽しみ、作曲活動を続けた。卒業後は病理学の助手になり陸軍病院に勤務し、58年医学博士号を得、翌年化学の研究のためにハイデルベルク大学に留学、西ヨーロッパ各地でとくにロマン派の音楽を知る機会を得た。62年に帰国、母校の化学担当教官に任命され、有機化学の研究を生涯続け、その多忙な公務の余暇に作曲にあたった。音楽面では、帰国後、国民楽派の指導者バラキレフと出会い、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー・コルサコフとともに「五人組」のメンバーとなる。そして留学前からの友人ムソルグスキーとの親交を深めてロシア国民音楽創造に貢献し、一時はキュイの代理として匿名で「五人組」のための批評活動も行った。ボロディンはロシア史の民族的英雄に題材を求め、民族音楽の要素を取り入れた東方的詩情にあふれる音楽を生み出したが、なかでも未完に終わったオペラ『イーゴリ公』は有名である。また「五人組」の作曲家には珍しいことであるが、経験に基づいた室内楽の分野で本領を発揮し、優れた古典的構築性を示す叙情的な弦楽四重奏曲(とくに1881年作曲の第二番ニ長調が有名)などを残した。三曲の交響曲や交響詩『中央アジアの平原にて』(1880)もよく知られている。
[寺本まり子]
『井上和男著『ボロディン&リムスキー=コルサコフ』(1968・音楽之友社)』
ソ連の政治家。1903年ロシア社会民主労働党(共産党)入党、04~05年スイスのベルンに亡命。05年の革命期にはラトビアのリガで、キリルКирилл/Kirillの名で活動し、06年より18年までイギリス、アメリカに亡命した。ロシア革命後の18~22年、コミンテルンによってメキシコ、イギリス、トルコに派遣された。23年初め孫文に招かれて訪中、27年7月まで国民党中央執行委員会政治顧問、27年にソ連に帰国。その後労働人民委員代理、32~34年タス通信社副社長、34~49年ソビエト情報局局長、49年より『モスコー・ニュース』誌編集長。51年に粛清され、死後名誉回復された。
[木村英亮]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1884~1951
ソ連の政治工作員。ユダヤ人。若くして革命運動に参加し,アメリカに亡命したが革命後帰国し,コミンテルンの極東部門を担当。1923年からは孫文とヨッフェの協定により,中国国民党,国民政府の顧問として活動したが,27年に帰国し,以後ジャーナリスト,第二次世界大戦後粛清された。
1833~87
ロシアの作曲家。国民音楽派「五人組」の最年長者。遺作の歌劇「イーゴリ公」や,交響詩「中央アジアの草原にて」で知られる。化学者で論文約40編を残している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
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