ボロディン(読み)ぼろでぃん(その他表記)Александр Порфирьевич Бородин/Aleksandr Porfir'evich Borodin

デジタル大辞泉 「ボロディン」の意味・読み・例文・類語

ボロディン(Aleksandr Porfir'evich Borodin)

[1833~1887]ロシア作曲家・化学者。ロシア国民楽派五人組の一人で、強い東洋的色彩を特徴とした。作品に、交響詩中央アジア草原にて」、オペライーゴリ公」などがある。

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精選版 日本国語大辞典 「ボロディン」の意味・読み・例文・類語

ボロディン

  1. ( Aljeksandr Porfir'jevič Borodin アレクサンドル=ポルフィリエビチ━ ) ロシアの作曲家、化学者。ロシア国民楽派の五人組の一人。一八六七年に歌曲「眠れる王女」で成功したのち、本格的作曲活動にはいる。民族的色彩の濃いオペラ「イーゴリ公」(未完)や交響詩「中央アジアの草原にて」が有名。(一八三三‐八七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボロディン」の意味・わかりやすい解説

ボロディン(Aleksandr Porfir'evich Borodin)
ぼろでぃん
Александр Порфирьевич Бородин/Aleksandr Porfir'evich Borodin
(1833―1887)

ロシアの作曲家で、化学者としても著名。貴族の私生児としてペテルブルグに生まれる。幼時からピアノやチェロをはじめさまざまな楽器に親しみ、9歳で作曲をした。1850~56年ペテルブルグ医科大学で主として化学を専攻する一方、室内楽を楽しみ、作曲活動を続けた。卒業後は病理学の助手になり陸軍病院に勤務し、58年医学博士号を得、翌年化学の研究のためにハイデルベルク大学に留学、西ヨーロッパ各地でとくにロマン派の音楽を知る機会を得た。62年に帰国、母校の化学担当教官に任命され、有機化学の研究を生涯続け、その多忙な公務の余暇に作曲にあたった。音楽面では、帰国後、国民楽派の指導者バラキレフと出会い、ムソルグスキーキュイ、リムスキー・コルサコフとともに「五人組」のメンバーとなる。そして留学前からの友人ムソルグスキーとの親交を深めてロシア国民音楽創造に貢献し、一時はキュイの代理として匿名で「五人組」のための批評活動も行った。ボロディンはロシア史の民族的英雄に題材を求め、民族音楽の要素を取り入れた東方的詩情にあふれる音楽を生み出したが、なかでも未完に終わったオペラ『イーゴリ公』は有名である。また「五人組」の作曲家には珍しいことであるが、経験に基づいた室内楽の分野で本領を発揮し、優れた古典的構築性を示す叙情的な弦楽四重奏曲(とくに1881年作曲の第二番ニ長調が有名)などを残した。三曲の交響曲や交響詩『中央アジアの平原にて』(1880)もよく知られている。

[寺本まり子]

『井上和男著『ボロディン&リムスキー=コルサコフ』(1968・音楽之友社)』


ボロディン(Mihail Markovich Borodin (Gruzenberg))
ぼろでぃん
Михаил Маркович Бородин(Грузенберг)/Mihail Markovich Borodin (Gruzenberg)
(1884―1951)

ソ連の政治家。1903年ロシア社会民主労働党(共産党)入党、04~05年スイスのベルンに亡命。05年の革命期にはラトビアのリガで、キリルКирилл/Kirillの名で活動し、06年より18年までイギリスアメリカに亡命した。ロシア革命後の18~22年、コミンテルンによってメキシコ、イギリス、トルコに派遣された。23年初め孫文に招かれて訪中、27年7月まで国民党中央執行委員会政治顧問、27年にソ連に帰国。その後労働人民委員代理、32~34年タス通信社副社長、34~49年ソビエト情報局局長、49年より『モスコー・ニュース』誌編集長。51年に粛清され、死後名誉回復された。

[木村英亮]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボロディン」の意味・わかりやすい解説

ボロディン
Borodin, Aleksandr Porfir'evich

[生]1833.11.12. ペテルブルグ
[没]1887.2.27. ペテルブルグ
ロシアの作曲家。「五人組」の一人。幼時から楽才を示したが,ペテルブルグ医科大学に学び,1858年医学博士。 59~62年ドイツ,イタリアに留学後,64年母校の教授。同時に「五人組」を結成し,作曲活動も開始した。「五人組」のなかではオリエンタリズムの濃い作風で知られる。交響詩『中央アジアの草原で』,交響曲,室内楽などを作曲。 69年からオペラ『イーゴリ公』の作曲を始めたが,87年急死したため,同オペラはリムスキー=コルサコフらによって完成された。

ボロディン
Borodin, Mikhail Markovich

[生]1884.7.9. ヤノビッチ
[没]1951.5.29. シベリア
ソ連の政治家。本名 M.M.Gruzenberg。 1903年ロシア社会民主労働党に入党。 04~18年スイス,イギリス,アメリカに亡命。 18年7月ロシアに帰国し外交面で活躍。 18~22年コミンテルンで活動。 23~27年孫文の招きで中国へ渡り,国民党の顧問をつとめた。 32年英字紙『モスコー・デーリー・ニューズ』の編集長となったが,51年粛清され,死後名誉回復された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボロディン」の解説

ボロディン(ミハイル)
Mikhail Markovich Borodin (本名 Gruzenberg)

1884~1951

ソ連の政治工作員。ユダヤ人。若くして革命運動に参加し,アメリカに亡命したが革命後帰国し,コミンテルンの極東部門を担当。1923年からは孫文ヨッフェの協定により,中国国民党国民政府の顧問として活動したが,27年に帰国し,以後ジャーナリスト,第二次世界大戦後粛清された。


ボロディン(アレクサンドル)
Aleksandr Porfir'evich Borodin

1833~87

ロシアの作曲家。国民音楽派「五人組」の最年長者。遺作の歌劇「イーゴリ公」や,交響詩「中央アジアの草原にて」で知られる。化学者で論文約40編を残している。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ボロディン」の解説

ボロディン

ロシアの作曲家、化学者。
グルジアの貴族の非摘出子として生まれる。父の農奴ポルフィーリイ・ボロディンの子として入籍され、母に育てられた。
バラキレフをリーダー格とする「力強い一団」のメンバーとして ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ボロディン」の解説

ボロディン(ミハイル)
Mikhail Markovich Borodin

1884〜1951
旧ソ連の革命家
共産党員として活躍し,コミンテルンより派遣されて,トルコのムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)や中国の孫文の顧問となって革命の指導にあたった。のちスターリンにより粛清された。

ボロディン(アレクサンドル)
Aleksandr Porfirievich Borodin

1833〜87
ロシアの作曲家
ペテルブルクに生まれ,国民音楽の創造に努力。代表作は歌劇「イーゴリ公」「交響曲3番」,交響詩「中央アジアの草原にて」。化学者としても有名。

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百科事典マイペディア 「ボロディン」の意味・わかりやすい解説

ボロディン

ボロジン

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367日誕生日大事典 「ボロディン」の解説

ボロディン

生年月日:1884年7月9日
ソ連の政治家
1951年没

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