ポルタ(その他表記)Giovanni Battista(Giambattista)della Porta

改訂新版 世界大百科事典 「ポルタ」の意味・わかりやすい解説

ポルタ
Giovanni Battista(Giambattista)della Porta
生没年:1535-1615

ルネサンスイタリア自然哲学者ナポリの小貴族の家に生まれ,青年時代にヨーロッパ各地を遍歴した。彼の受けた正規の教育についてはほとんど知られていない。だがこの時代に復活した新プラトン主義やヘルメティシズム(ヘルメス思想)の影響下に,しだいに魔術的な自然に大きな関心を寄せるようになった。そして1570年代の後半には,近代最初の科学アカデミーともいわれる〈自然の秘密アカデミア〉をナポリに設立して,その研究に没頭した。彼は《人相学》(1586)から《屈折光学論》(1593)にいたるさまざまな著作を著すとともに,戯曲作家としても健筆をふるったが,その主著とみなされるのは,20巻から成る《自然魔術》(1589)である。これは,錬金術,光学,磁気,薬物の効能などに関する多数のもの珍しい実験や現象を雑然と寄せ集めた大著で,時代の趣向にかなったために,ヨーロッパ各国で翻訳され,ひろく読まれた。ちなみに彼によれば,魔術とは〈自然のあらゆる過程を究明する学問〉であった。
執筆者:


ポルタ
Giacomo della Porta
生没年:1532ころ-1602

イタリアの建築家ミケランジェロ没後,未完となった末期の建築工事(スフォルツァ家礼拝堂,カンピドリオ整備計画,サン・ピエトロ大聖堂など)を引き継いだ。なかでも,サン・ピエトロ大聖堂の中央大ドームを,半球形の原案を構造的配慮から浅い尖頭形に改めたうえで助手フォンタナとともに完成させた功績は大きい。ビニョーラ没後はローマ市内の主要建築物の工事の大部分に関係し,〈ローマ市民の建築家〉とよばれたが,ルネサンスからバロックへの過渡期にあって,その様式的個性は乏しかった。ほかに,ローマ市内主要広場の噴泉,サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会,イル・ジェスー教会ファサード,市郊外フラスカーティのビラ・アルドブランディーニ等の作品がある。
執筆者:


ポルタ
Carlo Porta
生没年:1775-1821

イタリアの詩人。当時オーストリアの支配下にあったミラノで官吏の子に生まれ,長じて父同様に官職についたが,かたわらミラノの文学伝統に正当な位置を占める方言詩の創作に励み,またロマン派の若い文学者のサークルに加わった。方言を用いて明らかに古典主義への反抗を意図したそのリアルな筆法は,修道士を辛辣に風刺する一方,貧民の生活を冷静に描き出した。言い換えるなら,その多様な作品の総体は,19世紀初頭におけるミラノ社会を痛烈に批判する,いわば人間喜劇となっている。なお,同じくミラノを描いた現代の小説家ガッダに与えた影響は重要である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルタ」の意味・わかりやすい解説

ポルタ(Antonio Porta)
ぽるた
Antonio Porta
(1935―1989)

イタリアの詩人、作家。アンソロジー詩集『最新人』(1961)に入り、「63年グループ」結成に参加した新前衛派の中心メンバーの一人。彼の詩はコミュニケーションの不可能性をいうよりも現実の生理的な瓦解(がかい)、その剥(は)がれた薄片を摘み取ることを目ざした。1958年から1975年までの詩の集成『きみたちにいうべきこと』(1977)のあと『歩行通行』(1980)、『終りの空気』(1982)、『侵入』(1984)の詩集、また編書として『70年代の詩』(1980)があり、『ゲーム』(1967)、『すべて裏切りだとしたら』(1981)などの小説作品も世に問うている。

[古賀弘人]


ポルタ(Giacomo della Porta)
ぽるた
Giacomo della Porta
(1541―1604)

イタリアの建築家。ローマに生まれ、同地に没。初めミケランジェロのもとで修業するが、ビニョーラの影響を強く受け、16世紀後期イタリア建築のマニエリスムを代表する一人となった。ミケランジェロの設計をもとにして起工されたローマのカピトリーノ丘にあるパラッツォ・デイ・コンセルバトーリ(1568)やサン・ピエトロ大聖堂の大ドーム(1589~90)は、ミケランジェロの没後、いずれもポルタによって大幅に修正されたうえで完成をみた。1572年以降、彼は、ビニョーラの手ですでに起工されていたローマのジェズ聖堂の完成(1575)に尽力するが、ここにも彼による修正が明白である。その後彼がローマで手がけたサンタ・マリア・デイ・モンテ聖堂(1580~81)やサン・タタナジオ聖堂(1580~83)のそれぞれの正面のデザインは、いずれもジェズ聖堂のそれが手本となっている。

[濱谷勝也]


ポルタ(Carlo Porta)
ぽるた
Carlo Porta
(1775―1821)

イタリアの詩人。ミラノに生まれる。神学校で学んだのち、一時期ベネチアで税務官として働き、ミラノに帰って、1804年に税務局に入った。ミラノの自由主義者たちと交際し、当時ミラノを支配していたオーストリアを批判し、聖職者の堕落を風刺する『葬儀』(1816)、『神への供物』(1820)などの詩を、ミラノ方言の自由な言い回しを駆使して書いた。また『ベルツィエーレのニネッタ』(1814)などの詩では、下層民の悲惨な生活を民衆のことばをそのまま生かして描き、他民族による圧政の苦しみを表現した。ポルタの詩は方言の自由な言い回しで、新古典主義の血の通わない生硬さを克服し、ロマン主義文学に新たな道を開いた。

[竹山博英]

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百科事典マイペディア 「ポルタ」の意味・わかりやすい解説

ポルタ

イタリアの建築家,彫刻家。ジェノバに生まれ,ローマに出てミケランジェロの助手として活動。のちビニョーラについてイル・ジェス聖堂を完成,サン・ピエトロ大聖堂の建築主任となった。サンタ・マリア・ディ・モンティ聖堂のファサードの設計も有名。後期ルネサンスとバロックをつなぐ建築家として重要。
→関連項目マデルノ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポルタ」の意味・わかりやすい解説

ポルタ
Porta, Carlo

[生]1776.6.15. ミラノ
[没]1821.1.5. ミラノ
イタリアの詩人。ベルシェ,マンゾーニらと親交を結ぶ。揺れ動く社会をまのあたりにして,彼の精神も激しい振幅をみせるが,自由と平等への渇望,聖職者や貴族の欺瞞や愚かしさへの批判,底辺にある人々への共感の態度には一貫したものがみられる。それをミラノ方言によって『司祭の戦い』 La guerra di pret,『ジョバンニ・ボンジェーの不幸』I desgrazi de Giovannin Bongee (1812~13) などにいきいきと描いた。ほかに『ベルゼーのニネッタ』 Ninetta del Verzee (14) ,評論『ロマン主義』 El romanticismo (19) 。

ポルタ
Porta, Giacomo della

[生]1537頃.ローマ
[没]1602. ローマ
イタリアの建築家。マニエリスムからバロック建築への移行を示す過渡期の建築家。 G.ビニョーラの第1の弟子で,師の死後,その遺業 (→イル・ジェズ聖堂 ) を完成。有名なものにミケランジェロの跡を継いで完成したバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中央の大ドーム (1588~90) ,カンピドリオ広場があるが,これらはバロック建築への傾向を示している。

ポルタ
Porta, Antonio

[生]1935.9.9. ミラノ
イタリアの詩人。雑誌『マレボルジェ』の編集にあたるかたわら,多くの雑誌に詩作や評論を発表。新前衛派の詩人として視覚的な詩などの実験的試みを行なった。主著『裏返しのまぶた』 La palpebra rovesciata (1960) ,『関係』I rapporti (65) ,『勝負』 Partita (67) ,『メトロポリス』 Metropolis (71) 。

ポルタ
Porta, Giovanni Battista della

[生]1535. ナポリ
[没]1615.2.4. ナポリ
イタリアの自然哲学者,劇作家。太陽光線の熱効果を初めて発見。農業,光学,化学など多領域の考察を行い,主著『自然の魔術』 Magia naturalis (1558) では自然現象を支配するための技術として魔術を論じた。彼はまた当時の生活を多くの喜劇作品に描いた。

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世界大百科事典(旧版)内のポルタの言及

【ジュスティ】より

…代表作に,《詩集》(1844),《新詩篇》(1847),《トスカナ格言集》(1853),《書簡集》(1859)などがある。なお,ミラノ方言による風刺詩で名高いC.ポルタをジュスティがつねに意識し,みずからの作品を,トスカナ方言を縦横に織り込むことによって書きつづった点は,見落としてはなるまい。【鷲平 京子】。…

【イル・ジェスー教会】より

マニエリスム後期の建築で,1568‐84年建設。ビニョーラが着工したが建設途中で没したため,ポルタが引き継ぎ,ファサードは後者のデザインによる。縦長の半円筒形ボールトひとつでまとめる幅広い身廊(単廊式,幅約20m)の構成や,アルベルティの手法を踏襲したファサードのデザインは,イエズス会の発展とあいまって,バロック期の教会堂建築に大きな影響を与えた。…

【イタリア演劇】より

…ナポリの市井の情事を扱いながら,錬金術師を登場させたりするブルーノのこの喜劇は,後年パリで出版されたために,イタリアでは長い間無視されていた。ナポリにはもう1人,29編の喜劇を書いたといわれるG.B.dellaポルタがいる。ポルタも戯曲は書いたが,ブルーノのように哲学者であり,科学者であり,また神秘学者であった。…

【カメラ】より


【カメラの歴史】
 すでに述べたようにカメラ・オブスキュラはかなり古くからあり,その原理についてもイブン・アルハイサム(アルハーゼン),R.ベーコンらは知っていたといわれ,レオナルド・ダ・ビンチもカメラ・オブスキュラの正確な記述を残している。イタリアのG.B.dellaポルタは,1589年の《自然魔術》という著書の中でカメラ・オブスキュラを一般に広く紹介したが,すでにこれより以前にG.カルダーノやバルバロDaniel Barbaro(1528‐70)が両凸レンズを用いて明るい映像を得る方法を述べており,またバルバロは68年の著書の中で鮮明な映像を得る方法として絞りの採用も提案している。当時,カメラ・オブスキュラはもっぱら絵をかくときのトレース用として利用され,その小型化も図られたが,実用的なポータブル化に成功したのはドイツの僧ツァーンJohann Zahn(1641‐1707)であり,1685年の彼の著書を見ると,彼のカメラ・オブスキュラには光路に斜めに反転可能な鏡があって,水平なピントグラス上に映像を結ぶ一眼レフ方式になっていることに驚かされる。…

【幻灯】より

…この装置はキリスト教伝道のためのアトラクションないし民衆を驚愕させる見世物に利用された。映像を大写しにする技術自体は,16世紀半ばにG.B.dellaポルタがカメラ・オブスキュラにレンズを取り付けて作った〈魔法劇場〉等に先例を見るが,光源を内部にもつ箱の小孔から外へ映像を写しだす幻灯の形式とは逆に,外光を暗箱の内に引き込む仕組みであった。幻灯はその後改良され,レンズを種板より外に出し,倒立像を写す代りにレンズ操作をしやすくした現在の形式も考案された。…

【写真】より

…また後にレオナルド・ダ・ビンチによって書き残されたメモのなかにも,〈カメラ・オブスキュラ〉の名がたびたび使われており,それが実在していたと推測される。そして同じイタリアの自然哲学者G.B.dellaポルタの《自然魔術》(1558)の記述では具体的に,カメラ・オブスキュラの絵画への応用を推奨している。カメラ・オブスキュラとはラテン語の〈暗い部屋〉の意味で,閉じた暗い部屋(箱)の側面に小穴を設け,向いの側面に,この穴を通して外部の画像を写し出す装置のことである。…

【人相学】より

…この四性論的人相学はヒルThomas Hillの《人間の観察》などにも詳しい。一方,G.B.dellaポルタの著《観相術》はアリストテレス学派に倣って,動物類推法により人相を系統的に論述し,P.P.ルーベンス,C.ル・ブランらの画家に影響を与えている。 さらにJ.K.ラーファターの《人相学断章》は四性論と動物類推の方法を駆使して顔貌の諸特徴を詳細に解釈した。…

【汎知学】より

…イタリア人たちがこれを活用する。G.B.dellaポルタの珍奇な《自然魔術》,世を驚愕せしめ意表をつくための珍品奇種に満ち満ちたあの驚異博物館は,この原理を存分に活用している〉(ポイカート《汎知学》)。 自然の書は,このように中世を通じて,司祭や神学者たちが拠っていた公然たる神の書とともに,無学文盲の民衆の実生活に依拠した自然観照を通じて培養されてきた。…

【宝石】より

…この場合,石の硬さはだいじな条件である。というのは,16世紀の博物学者ポルタも述べているように,硬度の高い宝石ほど凝集力が強いので,いったん吸収された天体の力は堅固に保存されることになるからである。かくて宝石を護符として身に着けていれば,いざというときに,その保存された力を有効に使うことができると信じられたのであった。…

※「ポルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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