日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルタ」の意味・わかりやすい解説
ポルタ(Antonio Porta)
ぽるた
Antonio Porta
(1935―1989)
イタリアの詩人、作家。アンソロジー詩集『最新人』(1961)に入り、「63年グループ」結成に参加した新前衛派の中心メンバーの一人。彼の詩はコミュニケーションの不可能性をいうよりも現実の生理的な瓦解(がかい)、その剥(は)がれた薄片を摘み取ることを目ざした。1958年から1975年までの詩の集成『きみたちにいうべきこと』(1977)のあと『歩行通行』(1980)、『終りの空気』(1982)、『侵入』(1984)の詩集、また編書として『70年代の詩』(1980)があり、『ゲーム』(1967)、『すべて裏切りだとしたら』(1981)などの小説作品も世に問うている。
[古賀弘人]
ポルタ(Giacomo della Porta)
ぽるた
Giacomo della Porta
(1541―1604)
イタリアの建築家。ローマに生まれ、同地に没。初めミケランジェロのもとで修業するが、ビニョーラの影響を強く受け、16世紀後期イタリア建築のマニエリスムを代表する一人となった。ミケランジェロの設計をもとにして起工されたローマのカピトリーノ丘にあるパラッツォ・デイ・コンセルバトーリ(1568)やサン・ピエトロ大聖堂の大ドーム(1589~90)は、ミケランジェロの没後、いずれもポルタによって大幅に修正されたうえで完成をみた。1572年以降、彼は、ビニョーラの手ですでに起工されていたローマのジェズ聖堂の完成(1575)に尽力するが、ここにも彼による修正が明白である。その後彼がローマで手がけたサンタ・マリア・デイ・モンテ聖堂(1580~81)やサン・タタナジオ聖堂(1580~83)のそれぞれの正面のデザインは、いずれもジェズ聖堂のそれが手本となっている。
[濱谷勝也]
ポルタ(Carlo Porta)
ぽるた
Carlo Porta
(1775―1821)
イタリアの詩人。ミラノに生まれる。神学校で学んだのち、一時期ベネチアで税務官として働き、ミラノに帰って、1804年に税務局に入った。ミラノの自由主義者たちと交際し、当時ミラノを支配していたオーストリアを批判し、聖職者の堕落を風刺する『葬儀』(1816)、『神への供物』(1820)などの詩を、ミラノ方言の自由な言い回しを駆使して書いた。また『ベルツィエーレのニネッタ』(1814)などの詩では、下層民の悲惨な生活を民衆のことばをそのまま生かして描き、他民族による圧政の苦しみを表現した。ポルタの詩は方言の自由な言い回しで、新古典主義の血の通わない生硬さを克服し、ロマン主義文学に新たな道を開いた。
[竹山博英]