ポーラン(その他表記)Jean Paulhan

改訂新版 世界大百科事典 「ポーラン」の意味・わかりやすい解説

ポーラン
Jean Paulhan
生没年:1884-1968

フランス批評家。1920年《NRF(エヌエルエフ)》誌編集部に入り,25年リビエールの死後編集長に就任,多くの作家を育てて〈フランス文学の黒幕〉と呼ばれた。第2次大戦中,1940年ドイツ軍のパリ占領とともに辞任し,41年にはドクールと非合法文学紙《レ・レットル・フランセーズ》を創刊するとともに〈深夜叢書〉を刊行レジスタンス文学の推進者となった。戦後は《カイエ・ド・ラ・プレイヤード》,ついで《新NRF》の編集にあたった。1913年にマダガスカル原住民の詞華集を編んでいる彼は,早くから言語の問題に関心を抱き,その観点から文学の生成を考察した《タルブの花》(1941),《詩の鍵》(1944)といった作品は,60年代以後の新しい批評の先駆をなしている。他方《パトロン,ブラック》(1945),《怒れる人フォートリエ》(1949),《アンフォルメル》(1962)などすぐれた美術評論もある。63年アカデミー・フランセーズ会員に推挙された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポーラン」の意味・わかりやすい解説

ポーラン
ぽーらん
Jean Paulhan
(1884―1968)

フランスの批評家。南仏ニームの生まれ。ソルボンヌ卒業後、マダガスカルに滞在(1907~11)、新設リセの教師、砂金採掘師などを経験、かたわら、島の民謡、すなわち諺(ことわざ)や謎(なぞ)めいた詩行を含む歌謡の研究に打ち込む。『ハイン・テニィ』Les Hain-Tenys(1910~13、新版1939)がその成果で、代表作『タルブの花』(1941)への道を開いた。マダガスカルから帰国、東洋語学校の教師を経て、『NRF(エヌエルエフ)(新フランス評論)』の編集に参加、やがて編集長となる。1940年、対独協力を拒否しレジスタンス運動に入り『レットル・フランセーズ』紙を創刊する。平和の到来とともに、廃刊されていた『NRF』をよみがえらせた功績は大きい。ポーランは新人発掘の名人といわれ、またその書簡は、現代フランス文壇史を語るには欠くことのできない資料といわれている(たとえば『ポーラン=ポンジュ往復書簡集』1986)。

[松崎芳隆]

『野村英夫訳『タルブの花』(1968・晶文社)』

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百科事典マイペディア 「ポーラン」の意味・わかりやすい解説

ポーラン

フランスの批評家。1925年以後《NRF》編集長。抵抗運動に参加,《レ・レットル・フランセーズ》を創刊し,〈深夜叢書〉を刊行,レジスタンス文学を推進した。《タルブの花》(1941年),《詩の鍵》(1944年)などの著作知性危機時代における言語の純化を説く。

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世界大百科事典(旧版)内のポーランの言及

【NRF】より

…文壇に背を向けた小雑誌だったが,クローデル,バレリー,ジャムらの協力を得るとともに,アラン・フルニエ,ラルボー,ロジェ・マルタン・デュ・ガール,ジロードゥーら若い世代の才能を育て,第1次大戦前夜には新しい文学のとりでとしてひろく認められるようになった。大戦後復刊するやリビエール(1919‐25),次いでJ.ポーラン(1925‐40)を編集長として,フランスのみならず諸外国の若手作家にも誌面を提供し,世界の前衛文学の機関誌として有名になった。マルロー,サルトルらも同誌を通じて文壇に登場した文学者である。…

※「ポーラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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