マキャベッリ(読み)まきゃべっり(英語表記)Niccolò Machiavelli

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マキャベッリ」の意味・わかりやすい解説

マキャベッリ
まきゃべっり
Niccolò Machiavelli
(1469―1527)

ルネサンス期イタリア・フィレンツェ外交官、政治理論家。フィレンツェは1494年、それまで実質的支配者であったメディチ家を追放し、名実ともに共和政に復帰したが、マキャベッリはこの共和政の第2書記局(軍事・外交担当)の長に就任した(1498)。したがって彼は当時の同盟国フランスをはじめ、神聖ローマ帝国ローマなどに外交交渉のため幾度か足を運んだ。有名なチェーザレ・ボルジャとの出会いもこうした外交活動のなかで生じた。当時イタリアの軍隊傭兵(ようへい)隊が中心であったが、外交で辛酸をなめるなかでマキャベッリは、軍隊制度そのものを変えない限り、フィレンツェをはじめイタリアの政治的没落を防ぐ方法はないと判断するようになった。そこでフィレンツェの有力者ピエロ・ソデリーニの支持を得て、フィレンツェ周辺の農民からなる新しい軍隊を創設した。1509年、この新しい軍隊は長年にわたってフィレンツェを悩ましてきたピサ反乱を鎮圧するのに成功し、マキャベッリの評判も高まった。しかし1512年、メディチ家がローマ教皇イスパニア後押しでフィレンツェへの復帰を図ると、この共和政は軍事的に崩壊し、マキャベッリはその職を失った。

 マキャベッリは反メディチ派としての烙印(らくいん)を押され、一時は陰謀の疑いで投獄され、やがて郊外隠棲(いんせい)せざるをえなくなった。こうしたなかでも政治活動への情熱は尽きることがなく、とくにイタリアを取り巻く外交・軍事情勢には強い関心を払っていた。彼は再度活躍の場を求めてメディチ家への接近を図る。不朽の名著君主論』はこうした状況の下で一気呵成(かせい)に書き上げられたのである(1513)。またオリチェッラーリ学園という当時のフィレンツェの若者のサークルと交流していたが、『ローマ史論』はそこでの議論を基にしてまとめられたものであった。『君主論』『ローマ史論』はそれぞれ議論の力点を異にしつつも、政治行動の非倫理的性格を仮借なく論じ、外交、とくに軍事への異常なまでの関心を示している。『戦術論』(1521)はその当然の帰結であった。しかし彼の文筆家としての名声を一躍高からしめたのはこうした政治・軍事論ではなく、喜劇マンドラゴラ』(1518)であった。

 1520年ごろからマキャベッリとメディチ家との関係は好転し始めた。その一つの現れが『フィレンツェ史』執筆の依頼であった。また各地へ使節として派遣され、フランチェスコ・グイッチャルディーニとの親交もこの時期に始まる。やがて彼に好意的であったジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世に選出され、マキャベッリは完成したばかりの『フィレンツェ史』を携えて1525年ローマへ向かった。おりからイタリアではフランス王が神聖ローマ皇帝カール5世の前に大敗し、イタリアはハプスブルク家の支配に屈せんとしていた。マキャベッリはグイッチャルディーニといろいろ対策を協議したが、イタリアの政治・軍事状況はまったく好転しなかった。マキャベッリはフィレンツェ防衛の任務を命ぜられたが、皇帝軍がローマに攻め入り「ローマの略奪」(1527)の報が伝えられるや、フィレンツェは再度メディチ追放に立ち上がった。マキャベッリは今度はメディチ派としてこの新生共和国によって敵視される。この反乱からわずか1か月後、失意のうちに没した。

[佐々木毅]

『会田雄次他編『マキアヴェリ』(『世界の名著16』1966・中央公論社)』『佐々木毅編『マキャベリ』(『世界の思想家4』1977・平凡社)』『佐々木毅編『マキアヴェッリ』(『人類の知的遺産24』1978・講談社)』『永井三明・藤沢道郎編『マキァヴェッリ全集』全7巻(1998~2002・筑摩書房)』

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