ポルトガルの航海者。マゼラン海峡の「発見」者。ポルトガル名マガリャンイスFernão de Magalhães、スペイン名マガジャネスFernando de Magallanes。マジェラン(またはマゼラン)は英語読み。ポルトガル北部の港市ポルトの下級貴族ロドリゴ・デ・マガリャンイスの三男。国王ジョアン2世の妃(きさき)レオノールの小姓を振り出しに王室に仕える。1505年インド副王フランシスコ・デ・アルメイダの艦隊で従兄弟フランシスコ・デ・セランとともにインドへ向かう。インドには7年間生活し、セランを介してモルッカ諸島(香料諸島)とその豊かな香料取引について情報を深めた。1512年ポルトガルに帰国。1516年国王マヌエル1世に謁見し、俸給の増額や航海への任務などを請願したが、国王の不興を買い、1517年カスティーリャへ移った。
1518年、カスティーリャ王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に西回り航路によるモルッカ諸島到達計画を提案し、同年3月22日交渉は成立した。この航海にはモルッカ諸島の香料をあてにしてアントワープ(アンベルス)の商人クリストーバル・デ・アーロやフッガー家も出資し、五隻に約240人が乗り組んだ。一行は1519年9月20日サンルーカル港を出港、カナリア諸島を経由して同年12月リオ・デ・ジャネイロ湾に到着した。以後、1513年にバルボアがパナマ地峡を横断して発見した「南の海」(太平洋のこと)への通路を捜して南下し、1520年1月ラ・プラタ川を探検した。同年3月からはパタゴニア地方のサンフリアン港で越冬したのち、同年8月航海を再開、11月28日ティエラ・デル・フエゴ島との間の通路(マゼラン海峡)を通過して大海原(太平洋と命名)に出た。その後北上し、グアム島を経て1521年4月7日フィリピン諸島のセブ島に到着した。島の首長ハマバールと友好を結び、キリスト教を伝え、スペイン王に服させたが、これを拒む近在のマクタン島の首長ラプラプを懲罰するために出陣し、同月27日同島で落命。
残る一行は、1521年11月モルッカ諸島に到着。香料を入手したのち、1522年2月、スペイン人フアン・セバスティアン・デ・エルカーノはビクトリア号に60人を乗せてティドール島を出港、喜望峰を周回して同年9月6日サンルーカル港に帰着したが、食料不足や壊血病、悪天候に苦しめられ、生還した者はわずか18人であった。これが史上初の地球一周航海である。
[青木康征]
『ピガフェッタ著、長南実訳、増田義郎注『マガリャンイス 最初の世界一周航海』(『大航海時代叢書Ⅰ 航海の記録』所収・1965・岩波書店)』
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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