翻訳|Moluccas
インドネシア北東部,スラウェシ(セレベス)島とニューギニア島の間に散在する大小多数の島の総称。インドネシア語ではマルクMaluku諸島と呼ぶ。古くから香料群島として知られ,ハルマヘラ,セラム,アンボン,テルナテ,ティドールなどの島を含む。行政的にはマルク州としてまとめられ,アンボン島のアンボンが州都である。面積7万7871km2,人口199万0598(2000)。構造的にはヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯の会合点にあたり,地盤変動が激しく,大小の島々を生じ,また今も諸所に火山活動をみる。気候は高温多湿で(アンボンの年平均気温は25.8℃,年平均降水量は3450mm),密林に覆われる島が多い。住民構成も複雑で,これは一つには香料取引のため,外部の島からの他民族の到来にもよる。またアンボン人などはパプア系との混血度が強い。テルナテ,ティドール,アンボンなど香料貿易の中心であったところと,そうでないところとでは,人口密度や開発の程度でも大差がある。香料生産は今は衰え,代わってセラムなどで油田開発が進んだが,ブル島はまだ流刑地に使われている。
執筆者:別技 篤彦
中国の文献では元代には文老古,明代には美洛居などと記された。北部ではチョウジ,中央部ではニクズクを産し,大航海時代には到達目標の一つとなった。1512年にポルトガル人が進出し,後から来たスペイン人とのあいだに香料貿易の主導権をめぐる争いが続いた。オランダ人は1599年から南部に勢力を張り,1623年のアンボン事件で競争者イギリスをこの地から追い,ついに全諸島を支配下に置いた。そして香料貿易を独占するとともに,生産量調節のためホンギ遠征と呼ばれる強硬手段で香料原木の伐採,焼却を行い,住民の反感を招いた。オランダ東インド会社は67年にはマカッサル王とのあいだにボンガヤ条約を結んで,インドネシア東部から全競争勢力を退去させた。しかし,18世紀末以後は香料の産出地がほかに増え,モルッカ諸島の意義は失われた。インドネシア共和国独立後の1950年に島民たちが反乱を起こしたが鎮圧された。
→南マルク共和国
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インドネシア東部、スラウェシ島と西イリアン(ニューギニア島西部)との間に散在する諸島。現地名はマルクMaluku諸島。香料を特産とするため歴史的には香料諸島Spice Islandsとして知られる。ハルマヘラ、セラム、ブルの三大島をはじめ、スラ、バチャン、オビ、バンダの各諸島およびアンボン、テルナテ、ティドールなど、小島ではあるが重要な島々を含む。面積7万4505平方キロメートル、人口約234万1500(2001推計)、行政上はマルク州を構成する。構造的にはテチス、環太平洋両造山帯の会合点にあたり、地盤変動が激しかった所で、多くの火山活動を伴う。気候は高温多湿で、密林に覆われる島が多い。香料はアンボン島のチョウジ、バンダ島、テルナテ島のニクズクが有名で、17~18世紀にはオランダがその貿易を独占した。香料貿易は現在は衰え、諸島は一般に後進地域となったが、近年は石油、林産その他資源の開発が進められている。住民はマレー系、パプア系の混住で、テルナテ、ティドール両島はイスラム教の布教に伴い富裕なスルタン王国が発展し、現在も人口密度が高い。中心都市はアンボン島のアンボンである。
[別技篤彦]
モルッカ諸島の名称は、漢文史料にも(文老古、美洛居などと)散見するが、歴史が明らかになるのは1512年にポルトガル人アントニオ・デ・アブレウが、同諸島を訪れてからである。当時モルッカ諸島ではテルナテ王国とティドール王国が対立し、またすでにイスラムが信仰されていた。1522年ポルトガルのマジェランの世界周航船隊がテルナテ島を訪れ、これを契機に同年同地に要塞(ようさい)を建設し、スペインは26年にティドール島に要塞を建設した。29年に結ばれたサラゴサ条約でモルッカ諸島の領有はポルトガルのものとされたが、テルナテ、ティドール両王国もポルトガルの支配に抵抗し、1570年にポルトガルはテルナテの要塞を失った。1598年オランダ船隊がモルッカ諸島に到着し、1605年にはオランダ東インド会社がティドールの要塞を占領した。1606年スペインはテルナテ、ティドール両島を一時占領したが、オランダ東インド会社は06年から07年にかけて奪回し、モルッカ諸島を支配下に置いた。テルナテ王国は1638年、ティドール王国も1784年にオランダ東インド会社の領土となった。
[生田 滋]
インドネシアではマルク(Maluku)諸島という。インドネシア東部のスラウェシ島,ティモール島とニューギニア島の間に広がる諸島。ハルマヘラ,テルナテ,ティドーレ,アンボン,セラム,バンダ,アルなどの島々よりなる。クローブ(丁子(ちょうじ)),ナツメグ(肉ずく)は元来この地域にしか産出しなかったため,古くから香料諸島として注目された。16世紀にはポルトガル,スペイン,オランダ,イギリスなどのヨーロッパ人勢力および在地の諸勢力との間で香辛料取引をめぐる抗争が展開された。1660年代にはオランダの覇権が確立し,香辛料の生産統制を住民に強要したが,18世紀には香辛料生産が他地域にも拡大し,この地域の重要性は低下した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…これに対しインド洋を中心に東西を結んだ海上のルートでは,17世紀前半以前の時代に熱帯アジア諸地域産の香料(スパイス)が中心となっていたから,スパイス・ルートということができよう。例えば16~17世紀のヨーロッパ人の東洋進出の目的は,インド,スマトラ,ジャワの胡椒,スリランカの肉桂(につけい),モルッカ諸島とバンダ諸島の丁子(ちようじ)(製品としての香料が丁香である),肉荳蔲(にくずく)であった。ことにインドネシアの最も奥地で,13世紀までテラ・インコグニタ(未知の地)であったモルッカ諸島は,丁香の唯一の原産地であったから,ヨーロッパ人の東漸の最大そして最終の目的地であった。…
…一行は途中ブラジルを発見し,インドではイスラム商人の支援をうけたカリカット王と対立し,カリカットとは敵対関係にあったコーチン王と同盟を結び,コーチンに商館を開いて根拠地とした。 マヌエル王の方針は,一つはイスラム商人と対立しないような形でインドで貿易活動を行うことであり,もう一つはできる限り早くチョウジなどの産地であるモルッカ諸島に到達し,スペインに対して優先権を主張することであった。マヌエル王はまたインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために〈インド領〉を設置し,その初代副王としてフランシスコ・デ・アルメイダをインドに派遣した。…
…その結果,南アメリカの実体が明らかになるにつれて,ブラジルがポルトガルの管轄下に入ることになった。さらに,この条約は15世紀末のあいまいな地理知識にもとづいて作成されたので,のちに東洋とりわけモルッカ諸島の領有権が両国間で争われることになった。【染田 秀藤】。…
※「モルッカ諸島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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