日本大百科全書(ニッポニカ) 「マヌエル」の意味・わかりやすい解説
マヌエル(1世)(ポルトガル王)
まぬえる
Manuel Ⅰ
(1469―1521)
ポルトガル王(在位1495~1521)。アビス朝第5代の王で、僥倖(ぎょうこう)王o Venturosoともよばれる。ビゼウ公ドン・フェルナンドの息子。ジョアン2世の王妃レオノルの末弟で、ジョアン2世の嫡子の死後、養子となる。マヌエル1世の治下、ポルトガルは、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1498)、カブラルのブラジルの「発見」(1500)によって一大海洋帝国を築き、リスボンはアフリカ、アジア、ブラジルから流入する富で未曽有(みぞう)の繁栄をみた。彼は、この富を背景に中央集権化を進め、絶対王政を確立した。また、文化面でもルネサンスの黄金時代を迎え、戯曲家のジル・ビセンテ、詩人のサ・デ・ミランダなどが輩出し、建築ではジェロニモス修道院、ベレンの塔などいわゆる「マヌエル様式」が発達した。
[金七紀男]
マヌエル(1世)(ビザンティン皇帝)
まぬえる
Manuel Ⅰ
(1120―1180)
ビザンティン皇帝(在位1143~80)。コムネノス朝の皇帝ヨハネス2世の四男。外交手腕にたけた政治家で、西欧の騎士道文化に理解を示しながらも、他方ビザンティン帝国の世界支配の実現を目ざした。ノルマンのロジェール2世に苦しめられ、続くウィリアム1世とは和議ののち南イタリアから撤退した。しかし、キリキアのアルメニア領、アンティオキア公国、セルビア、ハンガリーにも帝国の宗主権を認めさせた。が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の反ビザンティン帝国路線に同調したイコニオンのルム太守領にはミリオケファロンの戦い(1177)で大敗を喫し、その栄光に頓挫(とんざ)をきたした。また、ベネチアの進出を抑えることもできなかった。
[和田 廣]