ケソン(英語表記)Manuel Quezon

改訂新版 世界大百科事典 「ケソン」の意味・わかりやすい解説

ケソン
Manuel Quezon
生没年:1878-1944

フィリピンコモンウェルスの初代大統領ルソン島タヤバス州(現,ケソン州)バレル町の小学校教師の家庭に生まれ,当時の最高学府であるマニラサント・トマス大学に学んだ。在学中にフィリピン革命勃発,フィリピン・アメリカ戦争の段階から革命軍に参加。アメリカの植民地支配下で,1905年にタヤバス州知事に選出され,07年に開設された一院制のフィリピン議会に出馬して当選,国政の中心的人物の一人になった。09年から16年までワシントン常駐代表を務め,フィリピンの自治権を拡大するジョーンズ法の獲得に成功。この名声によって,16年開設の二院制議会では初代上院議長に選出され,07年以来フィリピン政治を牛耳ってきたオスメーニャ指導権を脅かすにいたった。22年の総選挙でナショナリスタ党集団指導派を率いて勝利を納め,フィリピン政治の第一人者となった。35年にタイディングズ=マクダフィー法に基づいてコモンウェルスが設立されると,初代大統領に就任した。41年12月,第2期目の大統領就任を目前にして日本軍のフィリピン侵略が開始されたため,翌42年ワシントンに亡命政府を樹立したが,日本軍降服の日を見ることなく客死した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケソン」の意味・わかりやすい解説

ケソン
けそん
Manuel Quezon
(1878―1944)

フィリピン・コモンウェルス(連邦)期の大統領。ルソン島タヤバス州(現ケソン州)バレル町に生まれる。マニラのサント・トマス大学在学中にフィリピン革命が勃発(ぼっぱつ)(1896)。対米戦争(1898)の段階から革命軍に参加して戦った。アメリカ占領下の1905年、タヤバス州知事に選ばれ政界に入った。1907年、第1回フィリピン議会に当選。以後、国政の中心人物となった。1909年より1916年までワシントン駐在委員を務め、ジョーンズ法(フィリピン自治法)の獲得に成功した。この名声によって、1916年には二院制議会初の上院議長に選ばれ、文字どおりフィリピン政治の第一人者となった。1934年に成立したタイディングズ‐マックダフィー法(フィリピン独立法)によって、翌1935年初代のコモンウェルス大統領に当選した。日本占領中はワシントンに亡命政権をつくり、ニューヨークの病院で客死するまで大統領の職にあった。

[池端雪浦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケソン」の意味・わかりやすい解説

ケソン
Quezon (y Molina), Manuel Luis

[生]1878.8.19. ルソン,バレル
[没]1944.8.1. ニューヨーク,サラナック湖
フィリピン独立運動指導者。初め E.アギナルド抵抗運動に参加,アギナルドの帰順後,大学に戻り学位を取得。対米協力こそ独立への唯一の道と信じて,タヤバス地方の知事に立候補し,当選。 1907~09年フィリピン議会議員,09~16年アメリカ駐在フィリピン代表,16~35年上院議長。 34年フィリピン連邦独立法可決に努力,35年フィリピン連邦初代大統領。農民,労働者のための「社会正義」の綱領を打出し,商工業発展に努力,新国防計画に着手した。マニラ近郊に新首都ケソンシティーを建設。日本軍占領後渡米,42年反ファシズム連合国宣言に署名,太平洋戦争委員会委員となった。自伝"The Good Fight" (1942~44) 。 44年ニューヨークで客死。

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百科事典マイペディア 「ケソン」の意味・わかりやすい解説

ケソン

フィリピンの政治家。ナショナリスタ党を率いて米国からの独立に尽力。タヤバス州知事,議会議員,上院議長となり,1935年初代大統領。1941年再選されたが,日本軍の侵攻に際し1942年米国に亡命,客死。
→関連項目アギナルド

ケソン

開城

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旺文社世界史事典 三訂版 「ケソン」の解説

ケソン
Manuel Luis Quezon

1878〜1944
フィリピンの政治家
1899年アギナルドの率いる独立革命軍に参加。タヤバス州(現ケソン州)知事をへて上院議員となり,のちワシントン常駐代表を務め,ジョーンズ法の成立に成功した。1935年フィリピン共和国初代大統領。太平洋戦争勃発後,日本軍に抵抗,1942年バターン半島陥落直前に脱出し,アメリカで亡命政権を樹立したが,ニューヨーク州で客死した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ケソン」の解説

ケソン
Manuel Luis Quezon

1878~1944

アメリカ統治期フィリピンの政治家。巧みな政治手腕で植民地議会を率いてアメリカとの交渉による独立運動を指導,1935年フィリピン独立準備政府の大統領となった。日本軍侵攻後,アメリカに亡命して病死した。

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世界大百科事典(旧版)内のケソンの言及

【サクダル党】より

…1930年代にフィリピンで最も急進的な反政府運動を組織した政党。組織者ラモスBenigno Ramos(1893‐1945)はブラカン州ブラカン町出身で,州政府吏員,小学校教師などを務めたのち,マニラに出て,タガログ語によるフリーのジャーナリストとして名をなし,1917年初代上院議長ケソンの引きで上院に職を得るとともに,ケソンが催す演説会の弁士として活躍した。しかし30年,マニラの高等学校での学生ストライキを機にケソンと対立,週刊新聞《サクダル》を創刊して独自の政治活動を始めた。…

【ナショナリスタ党】より

…以後46年1月リベラル党が結成されるまで,一党独裁に近いかたちでフィリピン政治を牛耳り,結党の趣旨に反して対米協調的政策をとった。この間,オスメーニャ,ケソンの二大巨頭の指導権争いから,1922年と34年の2度にわたって大規模な分党騒ぎがあったが,いずれも暫時にして再統合された。しかし1922年以降,党の指導権はオスメーニャからケソンの手に移り,またこれ以後35年までは合同ナショナリスタ党Partido Nacionalista Consolidadというのが党の正式名称であった。…

※「ケソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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