日本大百科全書(ニッポニカ) 「マラガ」の意味・わかりやすい解説
マラガ
まらが
Málaga
スペイン南部、アンダルシア地方の港湾都市。マラガ県の県都。人口52万4414(2001)。地中海に臨むマラガ湾に面し、グアダルメディナ川の河口東側に中心市街がある。古代から港を中心に商業で栄え、市街地の北東背後の丘上には、フェニキア人の建てた要塞(ようさい)をグラナダ王国のユースフ1世が再建したヒブラルファロ城がある。その西下方にあるイスラム教徒の城砦(じょうさい)アルカサバ(11世紀)の廃墟(はいきょ)まで城壁が続く。旧市街の中心地にはルネサンス様式の大聖堂(16世紀)がある。周辺の肥沃(ひよく)な農地ではオレンジ、レモン、ポーポーなどの熱帯果物、野菜、サトウキビなどとともに、特産品のブドウが生産され、干しぶどうやマラガ酒として輸出される。マラガ港のおもな輸出品はワイン、果物や野菜などの農産物、セメント、鉄鉱石、鉛など、輸入品は石炭、石油、肥料、木材などである。港の周辺には製鉄、鉛精錬、セメント、繊維、化学、製糖、魚缶詰などの工業が立地している。地中海性気候の温暖な地域で、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の東玄関口にあたり、観光・保養都市としても発展している。中南米音楽のマラゲーニャは、マラガ一帯に伝わるファンダンゴの音楽形式の一種で、新大陸にも伝わった。画家ピカソの生地。
[田辺 裕・滝沢由美子]
歴史
紀元前8世紀ごろ、フェニキア人が植民市を建設したことに始まり、カルタゴ、ギリシアも交易に参加した。前205年の占領以後ローマの支配下にあったが、紀元後5世紀になってゲルマン系のバンダル人、ついで西ゴート人の支配を受け、6世紀から7世紀にかけてはビザンティン帝国に編入され、そののちふたたび西ゴート王国に復帰するなど、めまぐるしく所属が変わった。8世紀以後イスラムの支配下にあったが、1487年にフェルナンド2世、イサベル1世のカトリック両王がイスラムの手から奪回した。しかし、16世紀にイスラム教からの改宗が命じられ、その後も迫害を受けたため、モリスコ(改宗キリスト教徒)の反乱が頻発した。同じころ、イタリアへの羊毛輸出、アメリカ大陸との貿易で繁栄したが、アメリカ大陸貿易が自由化された18世紀後半以後衰退していく。また、19世紀前半におこった織物業、製鉄業も不振であった。1936年7月のスペイン内戦勃発(ぼっぱつ)に際して共和国側についたが、1937年2月フランコ側に占領された。
[中塚次郎]
『ロナルド・フレーザー著、高橋敦子訳『「スペイン」タホス村繁昌記――飢えと内乱から観光へ』(1975・平凡社)』