カースト(読み)かーすと(英語表記)caste

翻訳|caste

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カースト」の意味・わかりやすい解説

カースト
かーすと
caste

インドの中世(紀元後8世紀以降)には、一般にカーストとよばれる、さまざまな社会集団が形成された。それらのカースト諸集団をなんらかの基準によって上下に序列化することによって形成されたのがカースト制度である。

[小谷汪之]

バルナ社会理論と不可触民概念

カースト制度の大枠となったのは、紀元前800年ごろまでに形成されたバルナvara社会理論である。バルナは一種の社会階層のことで、バラモンBrāhmaa(司祭階層)、クシャトリヤKatriya(王族・武人階層)、バイシャVaiśya(庶民階層)、シュードラŚūdra(上の3バルナに奉仕する者の階層)の4バルナからなる。これらの下には、被差別民(賤民(せんみん))のさまざまな集団が存在したが、代表的な古典の法典『マヌ法典』(紀元前後に今日の形をとった)は「第五のバルナは存在しない」として、これらの被差別民諸集団を社会の正規の成員とはみなしていない。したがって、『マヌ法典』には不可触民にあたる社会階層概念は存在しないのであるが、紀元後数世紀以降の法典類には不可触民(アスプリシュヤ)という社会階層概念がみられるようになってくる。さまざまな被差別民集団をひとくくりにして不可触民ととらえる社会理論がこのころから一般化したと考えられる。こうして、4バルナの下に、不可触民という社会階層が置かれることによって、インド中世カースト制度の大枠となる5バルナ制というべき社会理論が形成されたのである。これと関連したことと思われるが、バイシャとシュードラという社会階層の内容が変化してきた。玄奘(げんじょう)はバイシャは商人の階層であり、シュードラは農民の階層であるとしているのであるが、これは古典の規定とは異なり、後にインド中世カースト制度下で一般化した考え方である。

[小谷汪之]

カースト集団の形成

7、8世紀、インド亜大陸各地で中世的社会が形成されはじめたが、その重要な一環として、一般にインド諸語でジャーティ(生まれ)とよばれる社会集団すなわちカーストも形成されはじめた。インド中世において、クシャトリヤという社会階層を代表したのはラージプートとよばれる集団であった。ラージプートという呼称は「王の子(ラージャプトラ)」ということばから派生したもので、北インド各地に勢力を張った武人諸集団の総称というべきものである。ラージャプトラということばは8世紀ごろから碑文などに見られるので、このころにはある程度の集団的結集を遂げていたと考えられる。他方、シュードラという社会階層に属するとされるカーストのもっとも早い事例の一つは北インドのカーヤスタである。カーヤスタは、もともとは、書記という職業を表すことばであったが、それが固定的な社会集団を意味するようになってきたのである。10世紀ごろの『ベーダ・ビヤーサ法典』では、カーヤスタは大工、床屋、牛飼い、陶工、花菜栽培人(マーラカーラ)、農民(クトゥンビン)とともにシュードラの階層に属するとされている。このようにカースト集団形成の一つの大きな契機は職業の共通性であったと考えられる。これらの諸カーストがシュードラの社会階層に属するとされていることは玄奘の記述と一致し、当時の実体を表していると考えられる。中世南インド、タミル地方の石刻文にも、多くのカースト名が記載されているものがあり、その中にはチェッティ、ワーニヤといった商人カーストの名前や、パライヤルという被差別民(不可触民)の名前も見られる。これらは今日にまでつながるカーストである。

[小谷汪之]

カースト制度の成立

さまざまなカースト集団が形成されはじめた中世初期には、村落共同体も形成されはじめた。初期仏典に描かれた村落は農民村落、大工村落、鍛冶(かじ)工村落といったように、それぞれの職業集団が別々に住む村落であったが、中世になると、多数のカーストの者たちが一緒に住み、村落のなかで分業関係を取り結ぶ、すぐれて村落共同体とよぶべき村落が形成されてきた。さらに、これらの村落共同体を数十束ねた地域共同体も形成され、それが各カーストの一次的結集の単位となった。たとえば、一つの地域共同体内の村々の大工が集まって大工カーストを形成し、それが近隣の諸地域共同体の大工カーストと二次的な結び付きのネットワークを広げていったのである。このようにして、地域共同体を場として、多くのカーストが形成されると、それらの間に上下の序列関係が生み出されることになった。そのとき、カースト間序列の大枠となったのが、前述の5バルナ社会理論であった。その頂点には、地域社会の精神的指導者であったバラモンの諸カーストが位置したが、クシャトリヤに属すると認められたカーストは存在しない地域の方が多かった。バイシャに属するとされたのは商人の諸カーストであったが、その数は少なかった。したがって、大部分のカーストはシュードラか不可触民の階層に属するとされていたのである。同時に、それぞれのバルナ内部の諸カースト間の序列関係もバラモン階層と在地の支配的カーストによって支えられた在地の慣習法によって決まっていった。このように、カースト制度は在地社会においていわば自然発生的に形成されてきた身分制度(社会的身分制度)であったから、地域ごとに偏差も大きく、その形成には多大な時間差があったと考えられる。しかし、カースト制度が一度形成されると、中世インドの諸国家は自前の身分制度(国家的身分制度)を制定することなく、カースト制度をもってそのままそれに代位した。そのため、カースト制度は社会のみならず、国家によっても維持される身分制度となったのである。カースト制度がいちおう完成された後でも、多数の新たなカーストが形成された。そのダイナミズムの一つは階層分解で、主として農民層の上層が武装するようになり、母集団から分離して新しい武人カーストを形成した。これらのカーストはクシャトリヤの身分を主張することが多かったのであるが、容易にはそれを認められなかった。その代表的なものが、マラータ王国(1674~1818)を樹立したマラータ・カーストである。また、社会的分業の発達によって、新しい職業に専従する集団が形成され、カーストになっていくということもしばしばみられた(マラータについては現地の発音に近いマラーターと表すケースもあるが、本事典では前者で統一している)。さらに、新しい宗派の形成も新しいカーストの形成につながることが多かった。リンガーヤトはその顕著な一例である。このように、カースト制度の内部はきわめて流動的だったのであるが、大枠としての序列関係には大きな変化をきたさないまま、イギリス植民地支配期(18世紀後半以降)に入った。

[小谷汪之]

植民地支配下の変動

植民地支配下、カースト制度は大きな変動をみせた。1772年、時のベンガル知事、W・ヘースティングズはヒンドゥーにかかわる民事訴訟においては、「シャーストラの法」を適用するという原則をたて、それが植民地領全体に広まった。「シャーストラの法」というのは『マヌ法典』のような古典の法や中世におけるその註釈書をさす。実際にも、『マヌ法典』などに基づいて裁判が行われ、中世においてはまったく意味をもたなかった再生族(学問を始める儀式であるウパナヤナ=入門式を受けることによって二度生まれる者という意)と一生族(ウパナヤナを受けないので一度しか生まれない者の意)の区分が判決を左右したりすることとなった。こうして、理念性の強いバラモン的な規範が一般化するとともに、各カーストのバルナ帰属意識が強まることになった。また、植民地支配下、カーストに広範な自治権(caste autonomy)が付与され、カーストの規制力が強化された。こうしたなかで、サンスクリタイゼーションSanskritizationとよばれる動きが顕著になってきた。これは、上位のカースト、とくにバラモンの社会慣行を取り入れることによって、自らのカーストの地位を上昇させようとする動きであるが、一般的には、肉食・飲酒を禁じるカースト規則をつくって、メンバーに強制することが多かった。また、それまで寡婦が自由に再婚していたカーストで、寡婦の再婚を許さないというバラモン的規則をつくるということも広くみられた。このことは、女子の幼児婚の慣習と相まって、女性に対する差別を強化することとなった。1871年からは、10年ごとに国勢調査が英領インド全域で画一的に行われるようになり、その際には、各人のカーストとそのカーストが属するとされるバルナの調査も行われた(1931年まで)。このことは、さまざまなカーストによる地位上昇運動を誘発し、そのための運動体として広範な地域にまたがる大カースト連合体が形成されるようになっていった。北インドのカーヤスタ大連合はその顕著な一例である。植民地支配下、一定の地方自治体制がしかれ、そのために選挙制度が導入されると、これらのカースト大連合は集票マシンとしても機能するようになった。独立(1947)後のインド政治を特徴づける「カースト・ポリティックス」への動きはこの時期から始まったのである。

[小谷汪之]

独立インドにおけるカースト制度

独立インドの特徴的な政策は、留保制度(Reservation)である。植民地支配下においては、『マヌ法典』のような古典の法典に準拠してインド社会が理解されたため、はじめ不可触民という社会階層は存在しないものとされた。しかし、1919年のインド参事会法により「被抑圧諸階層」(Depressed Classes)という法的範疇(はんちゅう)が導入され、一定の優遇措置がとられるようになった。これには不可触民諸カーストだけではなく、部族民とされた人々も含まれた。1935年のインド統治法では、指定カースト(Scheduled Castes)という法的範疇が導入されたが、これはほぼ不可触民に対応する範疇であった。これらの延長上、独立インドの憲法においては、指定カーストとともに、指定部族(Scheduled Tribes)という集団範疇も導入され、広範な優遇措置がとられるようになった。それは、中央・州議会の議席、公職、高等教育機関入学の一定枠をこれら両範疇に属する人々に留保(reserve)するという形をとった。この制度は10年ごとに更新されて今日に至っているが、なお、これらの人々に対する差別の撤廃にはほど遠いようである。なお、いまよく問題となるのは「その他の後進諸階級」(Other Backward Classes)に対する留保である。この集団範疇も憲法にみられるものであるが、その内容が曖昧(あいまい)であるうえ、上位の諸カーストに与える影響が大きいということで物議をかもしている。この範疇への留保は各州政府がそれぞれに実施しているが、多くの場合、カーストを基準として受益者集団を決定している。このように、独立インドにおける留保制度は、カースト帰属によって、利益が得られるかどうかが決まるという面を強くもつ。今日のインドでは、上下の序列関係としてのカースト制度はあまり意味をもたなくなっているが、カースト帰属は依然として大きな意味をもっている。このことが、「カースト・ポリティックス」と相まって、今日のインド社会を「カースト制度なきカースト社会」にしているのである。

[小谷汪之]

『山崎元一著『インド社会と新仏教』(1979・刀水書房)』『山崎元一著『古代インド社会の研究』(1987・刀水書房)』『臼田雅之・押川文子・小谷汪之編『もっと知りたいインド(2)』(1989・弘文堂)』『小谷汪之著『インドの中世社会――村・カースト・領主』(1989・岩波書店)』『押川文子編『インドの社会経済発展とカースト』(1990・アジア経済研究所)』『プラフルラ・モハンティ著、小西正捷訳『わがふるさとのインド』(1990・平凡社)』『B・R・アンベードカル著、山崎元一・吉村玲子訳『インド――解放の思想と文学5 カーストの絶滅』(1994・明石書店)』『M・K・ガンディー著、森本達雄ほか訳『インド――解放の思想と文学6 不可触民解放の悲願』(1994・明石書店)』『押川文子・小谷汪之・内藤雅雄・柳沢悠・山崎元一編『叢書 カースト制度と被差別民』全5巻(1994~95・明石書店)』『篠田隆著『インドの清掃人カースト研究』(1995・春秋社)』『小谷汪之著『不可触民とカースト制度の歴史』(1996・明石書店)』『小谷汪之編『インドの不可触民――その歴史と現在』(1997・明石書店)』『粟屋利江著『イギリス支配とインド社会』(1998・山川出版社)』『ルイ・デュモン著、田中雅一・渡辺公三訳『ホモ・ヒエラルキクス――カースト体系とその意味』(2001・みすず書房)』『堀本武功・広瀬崇子編『叢書 現代南アジア(3) 民主主義へのとりくみ』(2002・東京大学出版会)』『渡瀬信之著『マヌ法典――ヒンドゥー教世界の原型』(中公新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カースト」の意味・わかりやすい解説

カースト
caste

インド社会に独特な身分制度。その起源は前 1500年頃ガンジス川流域にアーリア人が進出し,先住民を征服して彼らを隷属階級として支配した時代にまでさかのぼるといわれる。その後,支配層の間にも職能の分化が生じ,人間を4つの貴賤に順序づける,バラモン (司祭者) ,クシャトリヤ (王侯,武士) ,バイシャ (庶民) ,シュードラ (隷属民) の種姓制度が成立した。これはやがてインド全域をおおうようになり,バラモンを最上位としてその宗教的権威と社会的特権を認め,社会秩序を組織化するものであった。とりわけ4世紀のグプタ朝以後の諸王朝では,この理念を支持して社会秩序の保持にあたり,10~14世紀には村落共同体の展開に伴い,各地域では土地保有階級を中核としてカーストの固定化が進行し,16~17世紀には頂点に達した。さらに社会における職能の分化が進むにつれて,主としてバイシャ,シュードラに属する人々の間に複雑なカースト集団の細分化が生じた。カースト集団,下位カースト集団の数は近年では 2000から 3000にも及ぶといわれる。各カーストは閉鎖的,排他的であり,その成員は共通の習慣,祭式,さらに世襲の職業に従事する義務をもち,他のカーストとの通婚および飲食は厳重に禁止されていた。このような生来の身分をインド人自身はジャーティ (生れ) と呼んでいたが,ポルトガル人が家系,血統を意味するカスタという語をジャーティをさすのに用いたことから「カースト」という語が生れた。今日では憲法で否定されているが,なおインド社会に根強く残っている。

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