日本大百科全書(ニッポニカ) 「シバージー」の意味・わかりやすい解説
シバージー
しばーじー
Shivājī Bhonsle
(1627/1630―1680)
インド中央部、デカン地方を中心とするヒンドゥー王朝、マラータ王国の創始者(在位1674~1680)。デカン地方は14世紀以降、さまざまなムスリム諸王朝によって支配されていた。17世紀にはアフマドナガルを首都とするニザーム・シャーヒー王朝と、ビジャープールを首都とするアーディル・シャーヒー王国とが強力であったが、ムガル帝国は北からこれらの王朝に攻撃をかけていた。このムスリム系の諸王朝の支配下で、マラータの豪族が徐々に成長していった。彼らはおもに郷主(デーシュムク)とよばれる人々で、通常数十か村を支配し、1000人ぐらいの兵を擁する在地の土豪階層であった。
シバージーは、ニザーム・シャーヒー王朝に仕えていた有力なマラータの武将シャーハジーの息子として生まれ、父の封地であったプーナ(現、プネー)で育った。シバージーは1640年ごろから、プーナ周辺の土豪勢力を糾合し、独立的な勢力を形成していった。ニザーム・シャーヒー王朝は早くムガルによって倒されたため、シバージーが戦った相手は、初めはアーディル・シャーヒー王国、のちにはムガル帝国であった。とくにムガル第6代アウランゼーブは、北部のアウランガーバード(オーランガーバード)の軍営に30年にわたって滞在し、マラータ勢力撲滅を意図したが、ついに成功しなかった。
シバージーの戦法は、山城を築き、そこを拠点とするゲリラ戦法が主であり、デカン山岳部に約250の城塞(じょうさい)を築いたといわれる。その支配力がムスリム諸王朝に対抗する力を得たと判断された1674年、シバージーはラーイガル城でヒンドゥーの古式にのっとってマラータ王国の王位についた。シバージーの領土は、スワラージャ(自領)と称されたが、ムガルの領土に対してもチャウタと称される税の徴収権を獲得し、徐々に侵食していった。
[小谷汪之]