デジタル大辞泉
「アウラングゼーブ」の意味・読み・例文・類語
アウラングゼーブ(Muḥyī al-Dīn Muḥammad Aurangzīb)
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精選版 日本国語大辞典
「アウラングゼーブ」の意味・読み・例文・類語
アウラングゼーブ
- ( Aurangzeb ) インドのムガール帝国第六代皇帝(在位一六五九‐一七〇七)。ムガール朝最大の版図を実現したが、その専制と宗教的狂信性のため各地で反乱を招き、帝国は衰退した。(一六一八‐一七〇七)
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アウラングゼーブ
Aurangzēb, Mohī al-Dīn Mohammed
[生]1618.11.3. グジャラート,ドーバド
[没]1707.3.3. アーマドナガル
インド,ムガル帝国第6代の皇帝 (在位 1658~1707) 。父皇帝シャー・ジャハーンのもとにデカン地方の太守 (→スーバダール ) であったが,1657年父帝重病を契機に,兄ダーラー・シュコー,弟ムラードなどと帝位継承権を争い,1658年父帝をアーグラ城に幽閉しみずから帝位についた。アウラングゼーブの治世前半は曾祖父アクバル大帝以来3代にわたるムガル帝国の安定と繁栄が続いたが,後半には諸地方における反乱,ムガル帝室内の混乱などムガル帝国衰退の兆しが色濃く現れた。アクバル以来のムガル帝国の盟友であったラージプート諸王朝や,パンジャブ地方に強大な勢力を築きつつあったシク教徒などとの争いは治世前半から続いていたが,特に 1681年から晩年まではデカン地方征服に全力を傾け,デカン・ムスリム王朝のアーディル・シャーヒー朝 (→ビジャープル王国 ) ,クトゥブ・シャーヒー朝 (→ゴルコンダ王国 ) などを滅ぼし,ムガル帝国最大の版図を実現した。しかし,晩年には英雄シバージーの指導のもとデカン地方を中心に勃興してきたマラータ勢力との長年にわたる激しい戦闘の結果,帝都デリーは放置され,ムガル帝国の統制力は北インドにほとんど及ばなくなり,皇帝の権威はまったく失われた。アウラングゼーブはまた,厳格なスンニー派イスラム教徒で,シーア派イスラム教徒に対する迫害,アクバルによって廃止されたヒンドゥー教徒に対するジズヤ (非イスラム教徒に課する人頭税) の復活など,厳格な政策によって宗教対立の原因をつくった。最後はマラータ勢力との戦争に疲弊しつくし,デカン高原北部のアーマドナガルで失意のうちに死んだ。死後,ムガル帝国は急速に衰退していった。
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アウラングゼーブ
Aurangzeb
生没年:1618-1707
ムガル帝国第6代皇帝。在位1658-1707年。第5代皇帝シャー・ジャハーンの晩年,その4皇子ダーラー・シコー,スルタン・シュジャー,アウラングゼーブ,モラード・バクシュの間で皇位継承戦争が起こり,アウラングゼーブはすぐれた軍事指揮と巧みな政治力で他の兄弟を圧倒して,1658年皇帝に即位した。この内戦では,ヒンドゥー,ムスリムを問わず多くの部将,高官を味方につけたことが,彼の勝因の一つであった。とくに,ペルシア出身でデカンのゴールコンダ王国に仕えていたミール・ジュムラMīr Jumlahは,初期において宰相として彼の支配を確立する上で大いに貢献した。またラージプート諸侯のうち,とくにジャイ・シングやジャスワント・シングらは,初期の約10年間すぐれた部将として活躍した。デカンでは,シバージーが興って以後,北からのムガル支配に反発する動きが激しくなり,このマラータの反乱に直面して,アウラングゼーブはデカンに主力を向けざるをえなくなった。アウラングゼーブは,1680年代にデカン征服を試み,ビジャープルBijāpur王国,ゴールコンダ王国をそれぞれ86年,87年に滅ぼした。アウラングゼーブは1678-79年のラージプート反乱の鎮圧と79年のジズヤ(人頭税)の復活を境にして,それ以前の時代とは,大いに政策を変えたといわれている。1707年までの彼の後半の治世においては,マラータの反乱や各地の農民一揆の鎮圧に手間取り,また帝国の支配構造の根幹であるマンサブダーリー制がゆらいできた。帝国領土の拡大と反比例して,帝国内部の政治的・経済的動揺は急速に激化していった。
→ムガル帝国
執筆者:小名 康之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アウラングゼーブ
Aurangzeb
1618~1707(在位1658~1707)
ムガル帝国の第6代皇帝。シャー・ジャハーンの三男。若い頃太守としてデカン地方に赴任し,デカンに政治的足場を築いた。1657年秋に始まった皇位継承戦争に勝ち抜いて帝位についた。若い頃からイスラームの信仰に熱心で,一生のうち数度コーランを筆写したという。政治的手腕に優れており,継承戦争においてはヒンドゥーもムスリムも上位の貴族を満遍なく味方につけ,他の兄弟を圧倒した。79~80年のラージプート諸侯の反乱鎮圧後,治世の後半には大々的にデカン征服に乗り出し,帝国の支配領域を拡大した。支配地の安定を図るため首都デリーを離れ,デカンのアウランガーバードで最後を送った。アウラングゼーブはムガル支配領域内でのイスラーム法体系を確立するため,ハナフィー派の法学者を集め,これまでの判例を収集させ,70年頃,大部の判例集『ファターワーイェ・アーラムギーリー』を編纂させた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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百科事典マイペディア
「アウラングゼーブ」の意味・わかりやすい解説
アウラングゼーブ
インドムガル帝国第6代の王(在位1658年―1707年)。1658年クーデタにより王位を得る。イスラムの信仰が厚く,このために異教徒を圧迫する。その結果シク教徒やラージプートが離反し,ムガル朝の崩壊を早めた。
→関連項目シャー・ジャハーン
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アウラングゼーブ
Aurangzēb
1618〜1707
ムガル帝国第6代の皇帝(在位1658〜1707)
父帝シャー=ジャハーンを幽閉し,兄弟と帝位を争って即位。熱烈なスンナ派信奉者で,イスラーム法による帝国再編を志し,異教徒を冷遇・弾圧した。デカン高原を制圧し,帝国の版図は最大となったが,宗教的不寛容と戦争出費によって帝国崩壊の要因をつくった。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアウラングゼーブの言及
【ムガル細密画】より
…表現は繊細さを増したが,活力を失い類型的なものが多くなった。アウラングゼーブ帝(在位1658‐1707)は絵画を嫌い画家を宮廷から追放したため,ムガル絵画は急激に衰えてしまった。イスラム美術[絵画]【肥塚 隆】。…
※「アウラングゼーブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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