日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミノル・ヤマサキ」の意味・わかりやすい解説
ミノル・ヤマサキ
みのるやまさき
Minoru Yamasaki
(1912―1986)
アメリカの建築家。シアトル生まれ。アメリカに移民した日本人夫婦の間に生まれた日系二世。働きながら学費を稼ぎ、1934年ワシントン大学建築学科を卒業。その後ニューヨーク大学に進み、修士号を取得(1935)。37年から43年までニューヨークのシュレーブ・ラム・ハーモン建築事務所勤務。44年から45年までレイモンド・ローウィRaymond Loewy(1893―1986)の事務所に勤務。ニューヨーク大学やコロンビア大学で教鞭をとる。49年、セントルイスとデトロイトにヤマサキ・アンド・ライン・ウェーバー事務所設立。後にミノル・ヤマサキ・アンド・アソシエーツに改称。
50年代は、ミース・ファン・デル・ローエを尊敬する、遅れてきたモダニズムの建築家として活動し、独立後、大きな交差ボールトの天井(アーチ状の天井)が連続するダイナミックな構造のセントルイスの空港ターミナル(1956)によって認められた。神戸のアメリカ合衆国領事館(1957、日本建築学会賞)は、床を浮かしたり、障子のようなスクリーンをもち、日本の伝統的な手法を意識したモダニズム建築を実現している。この領事館を設計する過程でヤマサキは日本の建築様式に感激し、そこから安らぎのある人間的な空間のあり方を学べると考えた。また同じ頃アジアやヨーロッパにも旅行し、イスラムやゴシックの建築に感銘を受ける。そしてヤマサキは、欧米の建築は力強さを追求するあまり東洋の建築を無視しているが、非西洋圏の建築も重要であると説くようになった。
こうした建築観の変容は60年代以降ヤマサキの作品に繊細さと叙情的な雰囲気を導入させることになる。その結果、モダニズムのデザインとはそぐわないが、イスラムやゴシックを連想させる尖頭アーチのモチーフが作品に頻出する。これはシアトル万国博覧会の連邦科学館(1962)やノース・ウェスタン・ナショナル生命保険会社(1964、ミネアポリス)のほか、垂直線を強調した世界貿易センタービル(1976、ニューヨーク)にも認められる。インドの世界農業博アメリカ館(1959)は連続するイスラム風のドームをもつ、はっきりとイスラムを参照した作品であり、ダハラーン空港(1961)、サウジアラビア金融局本部事務所(1978)、イースタン・プロビンス国際空港(1988)など、サウジアラビアのいくつかのプロジェクトでは、明らかにイスラム建築を意識した尖頭アーチを用いている。
世界貿易センタービルの計画では、I・M・ペイやフィリップ・ジョンソンらの巨匠をさしおいて、ヤマサキが設計者に選ばれた。彼は100以上もの案を検討し、110階建てのツインタワーの形式を採用する。さらにエレベーターの乗り換えのシステムを検討し、エレベーターの占める面積を極力減らした効率的なオフィスの設計を行う。建設当時はエンパイア・ステート・ビルディングを抜いて、世界一高いビルだった。だが、世界貿易センタービルは2001年9月11日の同時多発テロによって倒壊し、アメリカ資本主義のモニュメントとして記憶されることになった。
AIA(アメリカ建築家協会)ゴールド・メダル受賞。アメリカ芸術・科学院会員、ウェイン大学およびベイツ大学の名誉博士。そのほかの主な建築作品にはルイス・ベーカー邸(1950、コネティカット州)、プルーイット・アイゴー団地(1958、セントルイス)、マグレガー・メモリアル・コミュニティ会議センター(1959、デトロイト)、レイノルズ・メタル・リージョナル・セールスオフィス(1959、ミシガン州)、ミシガン・コンソリデイテッド・ガス会社(1963)、バトラー大学図書館(1965、インディアナポリス)、ヤマサキ邸(1972)、神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)教祖殿(1983、滋賀県)など。著書に『ミノル・ヤマサキ建築作品集』A Life in Architecture(1979)などがある。
[五十嵐太郎]
『西本泰久・石井早苗訳『ミノル・ヤマサキ建築作品集』(1980・淡交社)』▽『二川幸夫写真、小川正・吉岡亮介文『ミノル・ヤマサキ』(1968・美術出版社)』