ドイツ出身のアメリカの建築家で、20世紀の巨匠の1人。アーヘン生まれ。石工(いしく)の子で、正規の建築教育は受けず、木造建築・家具などの職人仕事を学ぶ。ベルリンに出たのち1909年ベーレンスの事務所に入り、いわゆる古典的な厳格さで形態を追求する彼の姿勢によってその生涯を決定した。これは12年のクレラー邸に現れ、第一次世界大戦後に至ってガラス壁による高層建築案に、そのガラスと鋼への深い愛着とともに示されている。20年代には国際合理主義建築運動の一翼を担う建築家として活躍、バルセロナ万国博覧会のドイツ館(1929)、チュゲントハット邸(1930、ツゲンドハット邸、トゥゲントハット邸とも)の代表的傑作を発表した。30年にバウハウスの校長に就任するが、ナチスの圧迫で閉校され、37年アメリカに移住、翌年アーマー工学院(後のイリノイ工科大学)教授に就任する。アメリカでの設計活動は40年代に入ってからで、イリノイ工科大学の配置計画と建築群の設計に始まり、プロモントリー・アパート(1949)、ファンスワース邸(1950)、IITクラウンホール(1952)、ベルリン国立美術館(1968)といった、主として水平屋根によって空間構成を行う一連の建築の系列と、ガラスと鋼材による超高層建築の系列を示した。後者には、シカゴのレイクショアドライブ・アパート(1957)、ニューヨークのシーグラム・ビル(1958完成)、シカゴ連邦センタービル(1964)などがある。また家具デザインでも活躍、「バルセロナ・チェア」は有名。シカゴに没。
ミースの建築的特徴は、ヨーロッパの伝統的な古典主義と近代工業の合理主義をいっそう徹底化し、純化・止揚して、両者をみごとに結合させえたことにある。彼の非凡な感性によってとらえられた直線による造形は、もっとも厳密な古典主義の純化でありながら、近代生活の多様性に応じる自在な空間を創造しており、その意味で近代建築における一つの大きなエポックを画した建築家であった。
[高見堅志郎]
『W・ブレイザー著、渡辺明次訳『ミース・ファン・デル・ローエ』(1976・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『W・ブレイザー著、長尾重武訳『ミースの家具』(1981・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』
ドイツに生まれ,後半アメリカで活躍した建築家。アーヘンの石工親方の子。ベルリンで,家具デザイナーのパウルB.Paulのもとで,ついで1908-11年AEG社デザイン顧問(1907以降)として活躍しはじめたP.ベーレンスの事務所で働く。12年,オランダの富豪クレーラー・ミュラーの邸宅設計を機に自立したものの,第1次大戦のため軍務に服する。戦後ベルリンの前衛芸術家集団〈11月グループ〉に参加し,建築部長を務める。このころ,フリードリヒ街の事務所ビル案(1921),〈ガラスの摩天楼〉案(1922),コンクリートの事務所ビル(1922)を発表し,鉄とガラスとコンクリートによる事務所建築の将来像を大胆的確に予言する。また煉瓦造田園住宅案(1923),コンクリート造田園住宅案(1923)では,デ・ステイル派の影響を受けつつも単純で豊かな独自の空間構成をすでに提示している。26年ドイツ工作連盟副会長となり,翌年のワイセンホーフ・ジードルング展の全体計画を担当。30年バウハウスの第3代校長となり,33年の閉校まで務める。この間,バルセロナ万国博ドイツ館(1929),トゥゲントハット邸(1930)などにより,かつて田園住宅案で示した流れるような空間構成を実現。37年アメリカへ移住し,イリノイ工科大学主任教授として後進の指導に当たるかたわら,アメリカのすぐれた技術を得て,かつて予言した鉄とガラスとコンクリートの特性を最大に生かした建築を実現していく。ファーンズワース邸(1950)は田園住宅案につらなり,レークショア・ドライブ・アパート(1951)は〈ガラスの摩天楼〉案に基づいている。しかし,彼はさらに高度な技術をふまえながら単純で豊かな単一空間を求め,イリノイ工科大学クラウン・ホール(1956),ベルリンの国立美術館(1968)らを手がける。また一方,高層建築シーグラム・ビル(1958,P. ジョンソンと共同)の影響は広く世界の大都市に見られる。
執筆者:山口 廣
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…機能主義建築
[国際様式]
1920年代に入ると,20世紀初頭に見られた建築の動きはヨーロッパ全体に影響を与える運動となってゆく。1919年に設立されたバウハウスは,ナチスの迫害を受けながらも,総合的な造形教育システムを打ち立て,校長を務めたグロピウスやミース・ファン・デル・ローエらの建築理念に基づき新しいデザインを推進した。特に後者の〈ガラスの摩天楼Glass Skyscraper〉案(1921)は,彼が後に発展させることになるカーテンウォールの高層ビルの原型を示すものであった。…
…この時代にヒルバーザイマーL.Hilberseimer,ペーターハンスW.Peterhansが教授陣に加わって都市計画と写真の専門クラスができる。しかしマイヤーの政治的思想は,バウハウスの敵対者の攻撃の火に油を注ぐ結果になり,30年彼は退任を余儀なくされ,L.ミース・ファン・デル・ローエが後任の校長になる。この間,26年には雑誌《バウハウス》が創刊され,25‐30年には《バウハウス叢書Bauhausbücher》(14冊)が刊行された。…
※「ミースファンデルローエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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