日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ミース・ファン・デル・ローエ
みーすふぁんでるろーえ
Ludwig Mies van der Rohe
(1886―1969)
ドイツ出身のアメリカの建築家で、20世紀の巨匠の1人。アーヘン生まれ。石工(いしく)の子で、正規の建築教育は受けず、木造建築・家具などの職人仕事を学ぶ。ベルリンに出たのち1909年ベーレンスの事務所に入り、いわゆる古典的な厳格さで形態を追求する彼の姿勢によってその生涯を決定した。これは12年のクレラー邸に現れ、第一次世界大戦後に至ってガラス壁による高層建築案に、そのガラスと鋼への深い愛着とともに示されている。20年代には国際合理主義建築運動の一翼を担う建築家として活躍、バルセロナ万国博覧会のドイツ館(1929)、チュゲントハット邸(1930、ツゲンドハット邸、トゥゲントハット邸とも)の代表的傑作を発表した。30年にバウハウスの校長に就任するが、ナチスの圧迫で閉校され、37年アメリカに移住、翌年アーマー工学院(後のイリノイ工科大学)教授に就任する。アメリカでの設計活動は40年代に入ってからで、イリノイ工科大学の配置計画と建築群の設計に始まり、プロモントリー・アパート(1949)、ファンスワース邸(1950)、IITクラウンホール(1952)、ベルリン国立美術館(1968)といった、主として水平屋根によって空間構成を行う一連の建築の系列と、ガラスと鋼材による超高層建築の系列を示した。後者には、シカゴのレイクショアドライブ・アパート(1957)、ニューヨークのシーグラム・ビル(1958完成)、シカゴ連邦センタービル(1964)などがある。また家具デザインでも活躍、「バルセロナ・チェア」は有名。シカゴに没。
ミースの建築的特徴は、ヨーロッパの伝統的な古典主義と近代工業の合理主義をいっそう徹底化し、純化・止揚して、両者をみごとに結合させえたことにある。彼の非凡な感性によってとらえられた直線による造形は、もっとも厳密な古典主義の純化でありながら、近代生活の多様性に応じる自在な空間を創造しており、その意味で近代建築における一つの大きなエポックを画した建築家であった。
[高見堅志郎]
『W・ブレイザー著、渡辺明次訳『ミース・ファン・デル・ローエ』(1976・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『W・ブレイザー著、長尾重武訳『ミースの家具』(1981・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』